お坊さんもビックリ!「法話に心打たれた人は1%」の謎を追う

お坊さんの世界のビッグニュースは、ときとして世の中とちょっぴりズレることもあるもので、先週は中外日報が報じた「法話に厳しい参拝者の声 本願寺派調査(2017年2月7日)」があちこちで話題になっていました。

お坊さんたちをビックリさせたのは、この記事で取り上げられた「1%」という数字。でも、私はちょっとこの「1%」に違和感を感じてしまったのです。いろんな意味で。

そこで、親しいお坊さんたちの協力を得て「1%」の謎を追ってみることにしました。

 

記事の出所は宗教専門紙「中外日報」

一般の方はあまりご存知ないかもしれませんが、宗教界にも専門紙がいくつかあります。「中外日報」は1897年(明治30)創刊、京都に本社を置き、現在は週三回発行している新聞(wikipediaより)。

この記事で取り上げられているのは、本願寺では、昨年10から11月にかけて、第25代専如ご門主に代替わりしたことを、仏祖の御前に奉告する「伝灯奉告法要」の前期に関するアンケートです。

「伝灯奉告法要」は、数十年に一度のおめでたい儀式ですから、期間中の来山者数は15万人以上。全国各地からの団体参拝者数だけでも、5万人を超えるという盛大さだったそう。ところが、同派(宗門伝灯奉告法要総務本部総務室)が参拝者418人に面接して行ったインタビュー調査の結果、

“「参拝して良かった」との回答は96%に上ったが、法要前に行われる法話に心を打たれた人の割合はわずか1%”(中外日報の記事より引用)

だったというのです。このあと、記事はこう続けます。

“「法話の聴聞は教団にとっての生命線。この数字は看過できない」と宗内に波紋が広がっている” (同記事より)

この記事の波紋は、宗内どころか宗派を超えて広がりました。そして、軽くバズってSNS上にお坊さん批判まで巻き起こしもました。なかには心ない言葉を目にしてしまい、傷ついたお坊さんもいらしゃいました。

今回、私がこんな検証めいたことに手を出したのは、この記事に心痛めるお坊さんがたくさんいらっしゃっるから。そしてまじめなお坊さんほど、心を痛めている姿を見て、私自身が悲しい気持ちになったから。

いやいや、どうかガックリしないでください!真摯に向き合うべきことなら、前を向いてみんなで一緒に考えていけばいいだけだし…と思いながら、まずは「詳細は2017年2月3日号をご覧ください」をたしかめるべく某所より本紙を取り寄せ。読みはじめて、思わず手が止まりました。

あれあれ? ちょっと待って。この記事の書かれ方、なんか違和感あるんだけどな…。

「法話に心を打たれた人は1%」はホントに衝撃的?

たしかに「法話に心を打たれた人は1%」って、この数字だけを見ればものすごく衝撃的でした。それと同時に、私のなかに「この数字ってどの文脈で出たものなんだろう?」という疑問も湧いてきました。

記事にもあるとおり、浄土真宗のすべての宗派にとって「聴聞は教団の生命線」です。しかも、「伝灯奉告法要」のような大事な儀式で法話する方は、宗派内でもとりわけ法話に定評のあるお坊さんのはず。聴き手であるところの参拝者も、わざわざ「伝灯奉告法要」にお参りするくらいですから、浄土真宗の教えに関心のある方たちです。私は、まずここに疑問を持ちました。

「この組み合わせで、なぜ法話が響かなかったんだろう?」

いったい、どんなアンケートで内容でこの結果が出たのでしょう? 回答として用意された選択肢の内容と数、回答可能数によっては、「1%」は特におかしな数字じゃないかもしれない。そこで、親しいお坊さんにお願いして、データの引用元になった『宗報』を見せていただくことにしました。

「参拝して心を打たれた」という人が418人中383人で91.6%。

その内訳を見ていくと、こんな感じになります。回答は「最大3つまで」。

・集いのインタビュー(ご門主家族)29%
・おつとめ27%
・音楽(音楽法要、雅楽)20%
・雰囲気12%
・大谷家に会えた11%
・ご門主の言葉6%・本願寺の伽藍6%

そもそも、「伝灯奉告法要」は、「大谷宗家のご門主の代替わりを仏前に奉告する法要」です。大谷宗家とは(こういう言い方が許されるかどうかわかりませんが)、本願寺派のカリスマ、スーパースター。つまり、参拝者にとって「伝灯奉告法要」は、大谷宗家を身近に感じ、法灯が継承されることの喜びや安心を分かち合う場なのです。

大谷宗家に関わる選択肢に回答が集中するのは当然だし、むしろこの法要においては「ねらい通り」と言ってもいいくらい、です。

1位の「つどいのインタビュー(29%)」について、『宗報』では「敬さま(ご門主のご長男)の愛らしく、そしてしっかりと話されるご様子に心打たれた方が大多数おられました」と紹介されています。ほかにも「大谷宗家三世代お揃いでお会いできた」「大谷宗家を身近に感じた」などの声もあったのも、うなづけます。

いかがでしょう。こうして見なおすと「1%の衝撃度」はかなり薄らいできませんか?

 

法要のなかで法話の時間はどう扱われたか?

ここまで読んで、「そうはいっても、浄土真宗は聞法の宗派。法話が1%というのはふがいないじゃないか」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。そこで、法要のなかで法話の時間がどのように設定されていたのか、参拝した方に教えていただくことにしました。

伝灯奉告法要のしおりの表紙

まず、「伝灯奉告法要」の時間は14時〜15時の約1時間。13時45分から「挨拶と布教」の時間がはじまり、法話の時間はわずか7〜8分程度だったそう。なかには「受け付けが混み合っていて、待っている間に法話が終ってしまった」と言う方もおられました(むしろ「教団の生命線」である法話が、脇役になってしまった法要のあり方にも議論があってもいいかもしれません)。

「伝灯奉告法要」に参拝する方たちは、各寺院において「正信偈」や「和讃」「拝読文」のお勤めを練習をしてこられることもあると聞きます。荘厳な雅楽とともにはじまる「伝灯奉告法要」という一世一代の儀式において、大谷宗家三代の方たち、満堂に集う参拝者とともに、声を合わせてお勤めすることに意識を向けていた方も多かったでしょう。

たぶん、「法要に感激する参拝者の声」ならわかるけれど、「法話に厳しい参拝者の声」というフレーズはちょっとヘン(失礼!)。参拝した方の実感値からもズレている気がします。

 

数字が示すのは「ひとつの側面」だけ

アンケート調査の結果はとても確かなものに見えますが、どれだけ公平性を期していても、回答や結果はある程度、はじめの条件設定に左右されます。母集団の取り方、問いの言葉はなんであったのか、選択肢はいくつあり、いくつまで回答可だったのか。数字はものごとの一側面を明らかにするために出す、ひとつの指標に過ぎないのです。(もちろん、メディアはその数字を取り上げるとき、条件設定も合わせて示す必要があると思います)。

だから、もしも数字に違和感を感じたら、自分の感覚を信じて「もう少しよく見てみよう」と一歩踏み込んでみてください。あるいは、「うーん、ホントのところどうなのかな?」といったん脇に置いて、結論を急がないでほしいと思うのです。

たぶん、この記事を書かれた方も、そしておそらくは取材に答えられた本願寺派の方も「法話には改善の余地がある」という認識を持っておられたのでは?と推測しています。記事を書いた方はむしろ、法話の可能性を信じて一石を投じようとされたのかもしれない……。

近年、本願寺派では「法話をもっと磨いていこう」という課題意識が強まっていると聞きます。だから、法話について議論が深まるのはむしろ良いことだと思います。

ただ、法話のあり方を問うために、この数字を引っ張ってくるのははたして妥当だったのかな?という疑問は残ります。そして、「1%」という数字を誇大に見て囚われたのは、記者さんだけではなく、この記事だけでものごとを見ようとした、すべての私たちでもあると思うのです。

そう。いついかなるときも、自らを問うことに向かうのが仏教、ですよね?

ものごとのほんとうの姿を見るために

長々と書いてしまいましたが、たいていの場合、ものごとってよく見れば見るほど「なーんだ」という気持ちになるもの。お釈迦さまが説かれた「正見」って、こういうことでもあるのかな?と思ったりして(ちょっと違うか)。

せっかくですので、お釈迦さまが「正見」を説かれたお経の1フレーズをみなさんと共有しつつ、この一文を締めくくりたいと思います。

當正觀察眼無常。如是觀者。是名正見。正觀故生厭。生厭故離喜離貪。離喜貪故。我説心正解脱。(雑阿含経巻第八)

正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり。

自尊心が傷ついた状態で議論したって、いいエネルギーは生まれない。どうか安心して、法要や法話のあり方をみなで考えていけますように(-人-)合掌。

お坊さん、地域で生きる人、職人さん、企業経営者、研究者など、人の話をありのままに聴くインタビューに取り組むライター。彼岸寺には2009年に参加。お坊さんインタビュー連載「坊主めくり」(2009~2014)他、いろんな記事を書きました。あたらしい言葉で仏教を語る場を開きたいと願い、彼岸寺のリニューアルに参加。著書に『京大的文化事典 自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)がある。