お寺への侵入

クリスチャンとして生まれ育った私は小さい頃から教会がとても身近でした。
毎週日曜日に通う馴染みの教会以外に、家族旅行の時も地方の教会巡りはつきもの。むしろ長崎などを訪れた時は教会巡りをメインとした家族旅行でした。大人になって京都で働くようになってからも、買い物途中に休憩がてらふらっと教会へ。知らない土地に行っても教会を見つければふらっと…。そうやって教会に訪れたとき、同じようにふらっと来ている人も他にいたので、何も特別な事ではありませんでした。仮にこぢんまりとした教会で、信者のおばさんが「見知らぬ顔ねぇ」と言わんばかりに不思議そうに見てきたら「少しお祈りさせてください」と声を掛けます。するとガラッと表情を変えて優しく迎え入れてくださいます。

お坊さんの彼氏(今は旦那)と付き合った当初のことです。なぜか私は好奇心も相まって「教会と同じようにお寺にふらっとお邪魔してみよう」と思いつきました。普段お金を払って観光寺院に訪れることはありました。でもいわゆる檀家寺と呼ばれるような地域のお寺にひょっこり訪ねたことはありませんでした。自転車でどこか出かけるとき、そういったお寺は沢山目にしてきました。でも入る口実が見当たらなかったので、入ろうと思った事はありませんでした。でも彼氏がそういうお寺で生まれ育ったと知れば興味は募るばかりです。目星をつけたのは当時住んでいた京都の寺町通りにあるお寺。名のごとくお寺が沢山並ぶ通りです。その中のとあるお寺に知人の画家の作品が本堂に飾られているお寺がある事を知っていたので「そこだ!」と思いついたのです。

お寺の前に着くなり、すでに私は緊張していました。まず自転車を停める時点でキョロキョロ見渡し「不審者と思われないだろうか…」と不安になってしまいました。恐る恐る入口に近づくも次に立ちはだかった難問は「インターホンを押すべきなのかどうか」という事。しばし立ち止まったのち「お参りに来るだけでその都度お寺の人を呼び出しては大変だろう」と勝手に想像して、押さずに玄関の中に入りました。「でもこのまま本堂にズカズカ入ってはやっぱり不審者?」という疑問も自分の中であったので、そのモヤモヤを払拭すべく「こんにちはー」と大きな声で玄関から叫びました。3回くらい叫びましたが、お寺と庫裏が離れているのか人が来る気配は全くありません。やっぱり引き返そうか…とも思いましたが、ここまで自分は相手に不信感を抱かせないために配慮した振る舞いをしたつもりだったので、もう臆することは無い!と自分に言い聞かせて本堂まで勝手にお邪魔しました。
ご本尊に挨拶をして、知人の作品を拝見して、本堂内に置いてある書籍をパラパラめくって、そろそろ失礼しようと思った頃、ようやくお寺の方が気づいてくださいました。今から思うと坊守さんだったのでしょう。「えっと…どちらさん?」と聞かれ、興味があって立ち寄らせてもらった事を説明し、お茶を出され、そのあと30分くらい世間話をしました。でも緊張のあまりその内容はすっかり忘れてしまいました。

よくお寺は「敷居が高い」と言われますが、私も過去の経験上そう思う一人です。
今はお寺に嫁いだ身としてそれではマズイと思っていますが、防犯対策もあって致し方ない点もあると思います。一方わたしがふらっと立ち寄っていたカトリック教会の敷居が低いのかと言うと、一般的な日本人(自分の宗教は仏教かなぁ?無宗教かな?という人)からすると、とても敷居が低いと言えないと思います。やっぱり知らない世界は誰だって敷居が高いと思うのです。

今、お寺に嫁いだことで他のお寺にお邪魔する機会も多く、その都度そのお寺のご本尊に手を合わせます。その前に本堂の入口でまず建物に向かって一礼します。そういう時、教会にふらっと立ち寄った時と同じような充足感が自分の気持ちの中にあることに気づきます。うまく言えませんが、「アーメン」でも「ナマンダブ」であっても、手を合わす事ができる事実がただ有難いなぁという満足感です。そしてお節介ながら、この気持ちを少しでも多くの人に共有できたらなぁという願望があります。

私が京都の寺町のお寺に訪れた時の体験、そして大きな緊張感、
これは今後も自分の中で忘れないようにして前を向いていきたいなぁと思う今日この頃です。

こじま あゆみ

滋賀県出身。キリスト教(カトリック)を熱く信仰する家庭で育つ。6人兄弟の長女でクリスチャンネームはマリア。 2014年春、お坊さんと恋愛結婚しお寺に嫁ぐことに。現在名古屋市にある真宗大谷派・開闡寺(かいせんじ)の若坊守として日々奮闘中。京都の老舗木版画店「竹笹堂」の元店長。