宗教の可能性

どうしてお寺に嫁ぐ事にためらいがなかったのか?
お坊さんをはじめた頃の彼があまり前向きじゃなかったとき(前回の記事
どうしてじっと見守ることができたのか?

そう自分に問いかけた時「もちろん彼のことが大切だから」という理由もひとつですが、それ以上に「宗教の可能性を信じているから」という根本的な想いがありました。それは私がクリスチャンとして生まれ育って、これまで体感してきた経験によってそう感じるところが大きいのかもしれません。

私は小さい頃から毎週日曜日は家族で教会に出かけ(中学くらいから部活でサボってきたが)寝る前は家族揃って祭壇に向かってお祈りの時間があり、夏休みの家族旅行は観光と併せて各地の教会巡りをしてきたような家庭で育ちました。
それが特別な事ではなく、当たり前として過ごしてきましたが、多感な年頃になると人によっては反発して親と一緒に教会に行かなくなったりする人もいます。でも、私の場合は取り立ててこの我が家の風習に抵抗することがありませんでした。それはやっぱり「心地良かったから」だと思います。

なにが心地良かったのか?
どの部分が良かったのか?

そう改めて考えると大きく2つ挙げられるような気がします。
まずひとつ目は「コミュニティ」。

毎週教会に行くと知っている顔にたくさん会えます。それも祖父母も通っていた教会なので、祖父母の教会仲間をはじめ、私の家族を知るたくさんの人々。老若男女ざっと200人くらいでしょうか。もちろん名前を知らない人もいっぱいいて、話したことのない人も沢山います。それでも「顔は分かる」という人がたくさんいて、心の中では密かに「最近あの人見かけないけど、どうしたんやろ?」と勝手ながら考えるわけです。そして礼拝(ミサ)を通して時間と空気を皆で共有します。

一見なんてことの無いような事かもしれませんが、普段私たちの生活で学校や会社や地域以外のコミュニティ、それも年齢がバラバラという集まりはなかなか少ないものです。話は変わりますが、以前親戚の家でアルバムをめくっていた時、目についた写真がありました。どこかの観光地で40人くらいの大人と子供が整列した集合写真で、その脇には「町内旅行」という文字が書かれていたのです。幼き母も満面な笑みで写っていたそのモノクロ写真が何とも愛おしく感じました。きっとそういうコミュニティにいるときの安心感は心地よいものだと思います。おそらく母は近所の人たちにたくさん育ててもらったんだなぁと写真から何となく察することができました。私の時代は町内旅行こそ無かったものの、近所のお兄ちゃんお姉ちゃん達に遊んでもらう時間は特別なものでした。たとえ同級生とケンカをして気分が沈んでいる日でも近所のコミュニティは別モノで、落ち込んだ私など関係なくいつも通りに接してくれる。そういうコミュニティに救われることは少なくないと思います。

「自分の居場所」というのは多ければ良いというわけではないと思いますが、少ないのはどうも息が詰まってしまう気がします。コミュニティというのは言い換えれば「自分の存在価値を肯定してくれる場」のことだと思います。核家族化が進む中、ますますお寺や地域といった世代を超えたコミュニティはとても大切になってくるような気がします。

2つ目は「宗教の教え、存在」です。

と、そんな大きな事を言ってみたものの自分でも「キリスト教ってどんな教えなの?」と人から聞かれるとまだまだ困ってしまうレベルですが「手を合わせる習慣があった」ということは自分にとって、とても有難い事だったと思います。具体的には、人間を遥かに超える大きな力によって生かされているという感覚を持てたという事です。それは生命の不思議にはじまり、挙げだすとキリが無いのですが、感謝して手を合わせることで日々の営みを有難く受けとめ、また自己中心的な考えに陥ることを多少なりとも阻止させてくれたのではと思っています。自分の私利私欲に走るのではなく、他者を認め、愛し、喜び合うために宗教があるのだ…と。勿論そんな事を普段から毎日考えているわけではありませんが、少なくとも日曜日に教会に行った時は、普段ヒートアップしている頭をちょっと冷静にすることができて、自然と手を合わす事ができるひと時だったと思います。それは「自分を正す」とか「原点に立ち返る」時間だったのかもしれません。

また、人の悪口を言ってしまったり、悪い事をしてしまった時、もちろんその相手に謝ることが第一ですが、心の中で神様に正直に謝ることで、自分の心の中をリセットしてきた気がします。キリスト教では「ざんげ」という言葉があり、自分の罪を告白する教えがあります。また礼拝の冒頭には「私たちの犯した罪を認めましょう」という神父さんの決まった台詞もあって、自分と向き合う時間が設けられます。どんな事があろうとも神さまは私のことを許してくださり、愛してくださる。そのためには私も神さまの子として生きることを誓うのです。なので、そういう場面でも自分を正し、原点に立ち返っているような気がします。

最後に、私は大好きだった祖母から「辛いことがあっても、それはあなたに乗り越えられることだから神様がお与えくださったお恵みなんだよ」と言われたことが忘れられません。この言葉はずっと自分の支えになっているような気がします。「神様のもとで生きているんだろうし、悩んでも仕方ない。何とかなるわ!」というような底抜けなポジティブ思考はこうやって根付いたのかな…と思うことがあります。

神さま(もしくは仏さま)が本当に存在するのかどうか私には到底分かりませんが、それでも宗教の教え、存在のお陰で多少なりとも豊かに過ごせた事はとても実感するところです。

今後お寺はどうしていくべきなのか?
お寺の奥さんとして何をするべきなのか?

まだまだ先が見えませんが、自分の体験をモチベーションに変えて
試行錯誤していきたいなと思っている次第です。

(写真は実家の祭壇です)

こじま あゆみ

滋賀県出身。キリスト教(カトリック)を熱く信仰する家庭で育つ。6人兄弟の長女でクリスチャンネームはマリア。 2014年春、お坊さんと恋愛結婚しお寺に嫁ぐことに。現在名古屋市にある真宗大谷派・開闡寺(かいせんじ)の若坊守として日々奮闘中。京都の老舗木版画店「竹笹堂」の元店長。