「ひらけ!さとり!」書籍化記念、小出遥子さんインタビュー

2015年9月、『彼岸寺』で連載されていた『ひらけ!さとり! お坊さんに聞く「ほんとう」のこと。』が、このたびめでたく書籍化されることになりました。そこで、著者の小出遥子さんに「連載を終えた、今だからこそ話せること」をインタビューで聞かせていただきました。

「今だから明かせることですけれど、別にさとりたくてやっていたわけじゃないんですよ」。

ええっ、それってどういうことですか、小出さん!

藤田一照さんから始まり、釈徹宗さんまでつづいた6人のお坊さんを巡る、32歳仏教女子のグレート・ジャーニーを振り返ることから始めましょう。

毎回、お坊さんにアツい手紙をしたためていました

——前から聞いてみたかったんですけど、インタビューさせていただく方はどうやって選んでいたんですか?

これは最初から最後までブレなかったんですけれど、「わたし」という枠、「わたし」という物語の向こう側からの語りに、きっと「さとり」と呼ばれる世界へのヒントはあるのだろう、と、そういう確信がありましたので。だから、そうした地点からの語りを聞かせてくれるだろうと直観した方に、直接、対話を申し込んでいましたね。ご著書を拝読したり、実際に講演などをお聞きしたりして、「この方なら間違いない!」と感じたお坊さんに。初対面のお坊さんには、手書きで便箋に5枚くらいの、アツいラブレターみたいな手紙を送らせていただいていました。大峯顕さんや小池龍之介さんはメールはされないので、返信用ハガキを同封して。

——お返事いつくるかな?と、毎日ポストを覗いたりとかしてました?

そうそう。それでいて、いざお返事が来たら「ああ、ついに来ちゃった!どうしよう、お返事を読むのが怖い!断られたら立ち直れない!」みたいな。まさに恋する乙女状態(笑)。

——相手はお坊さんなのに! さっき「さとりたくてやってたわけじゃない」と言っていたけれど、「なんでやりたかったの?」と聞かれたらどう答えますか?

うーん。もちろん、私だってさとりたくないわけじゃなくて、さとれるものならさとりたいと思っていますけれどね、いまでも(笑)。もしそれがほんとうに可能であるのなら。

FMaiaiの番組(兵庫県・尼崎のコミュニティFM) 「8時だヨ!神さま仏さま」のゲストに呼んでいただいたとき、釈徹宗さんが「仏教の奥座敷を覗こう、覗こうとしている小出さんの姿が『ひらけ!さとり!』の記事から浮かんで見えるんですよ」みたいなことをおっしゃってくださったんです。それは私としてはとてもうれしいお言葉だったんですけど、でも、本来は、「さとり」って、「奥座敷」になっているはずのないものだと思うんですよ。

仏教というのは、お釈迦さまが「法」を見出した瞬間、つまり「さとり」の瞬間から始まっているわけですよね。それならば、その最初の部分をダイレクトに探ってしまえ、と。そうすれば、もっと話がわかりやすくなるんじゃないかという直観があって。根源的なことを言うのなら「仏教」、というか「仏法」は、そもそもお坊さんや仏教徒だけのものじゃない。この世のすべてのベースに、ただ「ある」ものなんじゃないかなって思っているんですよ。

日常の一部に「仏教」という特殊なジャンルがあるわけではなくて、仏法のなかに日常のすべてがあると言っていいようなものなんじゃないかな、って。今のは今回のシリーズの対話のなかで藤田一照さんがお使いになっていた表現ですけれど。

すべては仏法のなかにあるのなら、修行を積んだお坊さんにしか到達できないものであるわけがないんですよ、さとりって。だから、ごくごく普通の生活をしている、アラサーの、素人丸出しな、自称・仏教ファンが「さとりってなんですか?」と言ってお坊さんたちに突撃しても、絶対に何か共感できるようなお話が伺えるはずだと思ったんです。

——そのように考えていることを、お坊さんたちにぶつけて確かめたかった?

そうですね。すべては仏法のなかにあるんですよね、って。私たちは、もうすでに、最初から、仏法のなかに生かされているんですよね、って。そのことを、ただただ確かめたかった。その「仏法のなかに生かされている」という事実を理屈を超えたところから理解することが「さとり」だと言うのなら、そのまま納得できるような気もして。

ところで小出さん。「さとり」ってなんですか?

——これ、一度聞いてみたかったんだけど。小出さん、「さとり」ってなんですか?

あはは!恭子さん、直球ですねえ(笑)。

——いやいや、小出さんほどでは…!

そうですねえ……。正直、「さとりってなんですか?」とすばらしいお坊さん方にお話をお伺いして回ったあかつきには、きっと「さとりとは何か」を明快に語れるような自分になれるんじゃないかと思っていたところはあるんです。でも、結局、「あ、何も言えないんだ。言えるわけがないんだ」「さとりは定義のしようがないものなんだ」という結論に達してしまいまして……。

途中まではね、「さとりってなんですか?もったいぶらずに早く教えてくださいよ!」みたいな変な焦りがあったんです(笑)。今になって原稿を読み直すと「ひらけ!さとり!」初期のものは、うわあ、私、めちゃめちゃ力んでいるなあって思うんですよ。わからないしつかめない、この世界の成り立ちの不思議さ、このモヤモヤ感をどうにかして処理したい、なんとかして言葉にしてスッキリしたい!そんな気持ちが自分のなかで燃え盛っていて(笑)。

——最初のころは、お坊さんたちに聞いていったら「あ、さとりってそれなのか!」となるかもしれないと、少しは期待していたんですか?

期待していましたね。仏教には「指月の喩(しげつのたとえ)* 」という有名なお話がありますよね。「月」、つまりは「真実」それ自体は絶対に言語化できないけれど、「指」で、つまりは言葉で指し示すことはできますよ、ただし指の先にあるものは自分で見てくださいね、と。でもね、私は、月まで届く指がほしかったんですよ。月に触れるような指が、きっとこの世のどこかにはあるんじゃないかと、やっぱり、強く期待していたんですよね。

*龍樹菩薩の『大智度論』の一節。指を「言葉(説法)」、月を「指し示されるもの(真実、教えの本質)」になぞらえて、言葉と仏法が同じではないことを説く。

——「月まで届く指がほしい」とまで思い詰めた気持ちは、6人のお坊さんたちにお話を聞くなかでほぐれていったということでしょうか。

はい、全力でほぐしていただきました(笑)。おかげさまで、今は、そういう気持ちがほとんどなくなってしまって……。開き直りとかじゃなくて、そもそもわかりようのないもの、言葉にしようのないものが「さとり」と呼ばれる世界なのだとしたら、そりゃあわからなくて当然だよな、って、ごくごく自然に思えています。「わからない」にくつろげるんだということに、ようやく着地できたというか。今は、「わからない」と仲良くしている感じですね。

 

何よりの説得力はお坊さんたちのたたずまい

——「正解がほしい」と期待する気持ちから、「わからないことにくつろぐ」に至るまでに、どんなことがあったのでしょうか。お坊さんたちに会うなかで、言葉で語られること、言葉でないところで感じること、いろいろあったのではないかと思います。

そうですね。やっぱり、はじめはね、これを掴んだらもう大丈夫という、絶対的な正解がほしくて旅を始めたんですけれど。藤田一照さんが最初で、最後が釈徹宗さん。ほんとうに心の底から尊敬している、名僧、高僧の方々とのご縁をいただくなかで、どんどん自分がゆるんでいく感覚がありました。でも、まだしぶとく残っていた最後の思い込みを取り去ってくださったのは、釈さんでした。

今回お話をお伺いしたお坊さんは、みなさんそれぞれに「正解なんてどこにもないよ」「さとりなんてないのに、あなた、何を聞いているの?」とずっとおっしゃってくださっていたんです。だから、釈さんの語りがすばらしかったということも、もちろんものすごく大きいんですけれど、それまでの5人の方のお話があったからこそ、その真意が私の心にまっすぐに届いたんだろうな、とも思うんですよね。(※彼岸寺の連載では5番目に大峯顕さん、6番目に釈徹宗さんにご登場いただいていますが、書籍では順番が入れ替わっています。)

——釈徹宗さんは、どんな言葉で届けてくださったんですか?

仏教は「絶対的な真理」「動かすことのできない真実」を語っていると思い込んでいた私に、釈さんは「仏教体系すらも物語です」といったようなことを繰り返し伝えてくださったんです。そのメッセージが「すとん!」と入ってきた瞬間、それまで私が後生大事に抱え込んでいた「さとり幻想」が、根こそぎ吹き飛ばされてしまった感じがして。正直、つらかったですね。記事をまとめる一週間、ずっと泣き通しでした。恭子さんにもメールしましたよね? 「私、どうしたらいいのかわからなくなってしまいました……」って。真理探求者としての小出遥子が、アイデンティティ・クライシスを迎えてしまったんですね。

——ありましたね。「書きたい、書こう」ってなるまで待ってたら大丈夫って話をしたときですね。

はい。その後、恭子さんの励ましもあって、少し落ち着いた心で釈さんの原稿を構成しながら、今までお話をお伺いしてきた5人のお坊さんの言葉も全部、それぞれ入れ子のようになって頭のなかを巡っていきました。ああ、そうか。あの時、あの方がおっしゃっていたのはこういうことだったんだ、と。そして、「ほんとうに、絶対的な正解なんてどこにもないんだ」と受け入れ切ったときに、ああ、私、もう、「わからない」ことにくつろいで生きていっていいんだ、と思ったんです。

大丈夫、私はもう、「わからない」ということと仲良くして生きていける、と思ったときに、これで「ひらけ!さとり!」シリーズを終えることができるな、とも思いました。

——お坊さんたちも、おそらくいつかの段階では「さとりたい」という気持ちを抱かれたこともあろうと思うんです。でも、今はその気持ちを去っておられることがわかったときに、小出さんのなかでも腑に落ちることはありましたか?

そうですね。たとえば、堀澤祖門さんは、十二年籠山行という、天台宗のなかでも一、二を争うほどの非常に厳しい行を修められたり、さらには単身インドに渡って虎が出てくるような山で一晩中お経を称えるような行をされたりと、ほんとうに、信じられないほど厳しい修行を積まれた方です。そんな堀澤さんが、「私もどうにかしてさとりたくて、随分いろんなことをしましたよ。でも、『さとり』なんてどこにもなかったんだ」って、何の力みもなく、ほんとうに素敵な笑顔で、そうおっしゃるんです。

今回お会いした6人のお坊さんたちは、みなさん、もれなくものすごくゆったりしていて、とにかくくつろいでいらっしゃったんですよね。自分自身にくつろいでいるし、今にくつろいでいるという言い方もできるかもしれない。そういうお姿を直に見せていただいたということが、私にはとても大きくて。対話の間中、そのくつろぎのなかにいさせていただいたことは、ほんとうに、ものすごく説得力のあることだったと思います。

——どなたからも、「さとれなかった」という挫折感を感じることはなかったということですか?

「さとれなかった」「わからなかった」わけじゃなくて、「さとりと呼ばれる世界のことなんて、そもそも個人には絶対にわかりようがないんだ」ということを、お坊さん方、みんな、心の底から理解されていらっしゃったんです。「わからない」という状態と、「わかりようがない、ということをわかっている」という状態って、似ているようでいて、実は天と地ほどの違いがあって。

「わからない」なら「わかる」に転じる可能性がちょっと残っているんですけど、「わかりようがない」というと、もう可能性はゼロです。そうなると、もうありもしない可能性に心を飛ばすこともなくなってくるので、完全に「今ここ」にくつろいで生きていけるようになる。あえて言うのなら、「さとり」ってこういうことなのかな、とも思っていますね、今は。

「さとり」から「いのち」の3文字へ

 
——「ひらけ!さとり!」を終えて、小出遥子さんはこの先どこに向かっていくのでしょう?
 
私のなかの「さとり」の世界を言葉できっちり理解したい!という気持ちが休まってしまったので、もう「さとり」という3文字をテーマにした活動は、しばらくの間はいいかな、と思っています。まあ、ご縁次第で、またいつ探求心に火がつくかはわからないですけれど、その時はその時で(笑)。
 
この先どこに向かっていくか?そうですね……。「さとりってなんですか?」という切り口で、6人のすばらしいお坊さんたちにお話をお伺いして最終的に見えてきたのは「いのち」というものだったんですね。「いのち」というのは、もちろん、私たち個人の、個別のこのいのちも含まれるけれど、個人を越えたところにある全体のダイナミズムというか、すべてを成り立たせている大元のエネルギーというか……。うーん、やっぱり、「いのち」としか言えないもの。「わたしがいのちを生きている」ではなくて、「いのちがわたしを生きている」の「いのち」と言ったらいいかな……。
 
——なぜ「さとり」を切り口にして「いのち」へと至ったのか、もう少し詳しく聞かせていただけますか?
 
「さとり」という言葉が指している世界は、言葉以前にただある「これ」のこと。言葉以前というのは、つまり、個人以前ということですけれど、そこに展開するただの「これ」。ほんとうに、ただ「これ」であり、しかも「全部」としか呼べないものだったので……。うーん、うまく言葉にできないな。言葉以前のものなので……。
 
——仏法そのもの、でしょうか?
 
うん、仏法そのものとも言えると思います。「全部」だから。「さとり」の世界も、決して個人が得るものではなく、個人の意識以前にある「これ」「全部」としか呼べないものなので……。
 
というかね、「さとりってなんですか?」という質問自体が、はっきり言って間違いだったんですよね。そもそも個人が答えられるような問いじゃなかった、ということです。問いの立て方自体にエラーがあった。でも、その間違った問いを、そのまま本のタイトルにもしちゃったんですけれどね(笑)。(※彼岸寺での連載は『ひらけ!さとり!』でしたが、書籍化にあたってタイトルを『教えて、お坊さん! 「さとり」ってなんですか』に変更しました。)
 
「さとりを明確に定義したい!」という一心で求めていった先に広がっていたのは、結局、ただの「これ」としか呼べないものだった。それで、その「ただのこれ全部」「どれでもなくて、かつすべてとして満ち満ちているこれ」を、仮に「いのち」と呼んでみよう、と。「さとり」と言うと、そこにまだどうしても個人の影がチラついてしまうけれど、「いのち」と呼べば、それはもう、個人を超えて、ただ「ある」ものになるじゃないですか。それがいいなあ、って。よし、これからは「さとり」推しじゃなくて、「いのち」推しでいこう、と(笑)。
 
——あえて、「仏法」や「ダルマ」、あるいは「縁起」や「空」などとは呼ばずに。
 
うん、もちろん、そう呼んでもまったく問題はないんですよ。仏教の文脈のなかでだったら。でも、他の宗教では他の言葉を使うでしょう。キリスト教なら「神の愛」というかもしれないし、宗教以外でも、ほら、遺伝子工学のとある有名な先生は、それを「サムシング・グレート」と呼んでいるというお話を聞いたこともあるし……。絶対に名付けられない、すべての大元のエネルギーとしての「いのち」は、文脈によっていろんな言葉を与えられていると思うんです。
 
それで、この「いのち」って、この世に生きる誰にとっても、どの角度からも「自分ごと」なんですよ。「いのち」と切り離されて生きている人は絶対にいないので。だから、「いのち」を真ん中に置いてしまえば、誰もが平等に語り合えるのではないか、と。その「平等さ」「フラットさ」って、実は大変な可能性を秘めていると思っていて。開かれた対話の場こそが、これからの世界を創造していく上でのベースになっていくんじゃないかな、と強く感じるんです。それならば、もう、ダイレクトに「いのち」をテーマとした対話を、誰もがざっくばらんにたのしめるような場をつくってしまおう、と。それを「Temple」というプロジェクトのメインテーマとしてやっていきたいなと思っています。
 
 

「Temple」プロジェクトで全国のお寺へ!

 
——神谷町・光明寺で開いていた「Temple」ですね。「いのち」というと「生命」という意味合いで捉える人も多いと思います。「Temple」では、いま説明されたような定義は事前に共有するんですか?
 
いいえ、あえてそういうことはしません。そもそもここで言う「いのち」は、言葉で厳密に定義できるようなものじゃないですしね(笑)。ただ、今後の「Temple」では、ゲストと私が、事前に「いのち」を巡って対話をした内容をそのまま記事にして、「Temple」のWebサイトにアップすることにしました。参加者には、その記事を読んでからイベントにお越しいただくようにします。そうすることによって、ある程度、足並みを揃えることができるので。でも、あくまで参加者同士の対話の内容については指定せず、ご自由に、ご縁にしたがって、自然に湧きあがってくるものをたのしんでください、という風にお伝えしています。
 
 
——「さとり」を言葉で追い詰めていこうとして、言葉にしないことにくつろぐ境地に至って、でもまた「Temple」で「いのち」について語り合う、つまりは言葉にしようとする。小出さんの往還をとても興味深く思います。しかし、言葉で捉えるようとする限り、囚われることもまた起きるのではないでしょうか。
 
そうですね。「個人」が「個人の言葉」を使って「個人のストーリー」を語ると、当然、そうなってしまうと思うんですよ。私の場合で言えば、「小出遥子」が「小出遥子の言葉」を使って「小出遥子のストーリー」を語ると、やっぱり、言葉に囚われるというようなことが起きてくる。でも、なにものでもないものとして語れば、言葉に囚われる誰かもあらわれようがないんですよね。そこを「Temple」ではやっていきたいんです。ただただ、本来自分はなにものでもないものだし、なにものでもない「いのち」そのものだったということを思い出していく場として、「Temple」を位置づけたいというか。
 
だから、「Temple」は対話をメインにしたイベントですけれど、あえて参加者同士の自己紹介の時間は設けません。お寺の本堂って、仏さまのお家ですよね。人間誰しも、仏さまの前では平等です。本堂に一歩足を踏み入れたら、娑婆での役割も肩書きも全部脱ぎ捨ててもらって、なにものでもないもの同士、「いのち」を真ん中に置いて、ご縁にしたがっておのずから起きてくる対話を、結論も、納得感も求めず、ただただくつろいでたのしんでもらえるような場づくりをしていこうと思っています。だから「Temple」というのは、「いのち」のなんたるかを探っていく場ではなくて、ただただ「いのち」のあらわれ、その戯れをたのしむ場、と言えるかもしれないですね。
 
——ちょっと坐禅に似ているのかな? 今、この瞬間に起きてくることを、娑婆から少し距離を置いて、ひとりで、共に、いのちのいとなみだけを見つめる時間を持ちましょう、ダイアローグでやりましょうという感じでしょうか。
 
そっか、そうですね!まさしく、坐禅のようなものなのかもしれない。娑婆での役割を全部脱ぎ捨てたうえで、そこで、もうただ、起きては消えていく「それ」を見つめていく行というか、いとなみですよね。結果を求めず、ただただ「今ここ」にくつろいで、「いのち」とともにあるというシンプルないとなみ。それ自体を「Temple」と呼んでもいいのかもしれない。
 
——本の出版後の予定は決まっていますか?
 
9月23日に「Temple」のWebを立ち上げました。このWebサイトを拠点にして「Temple」を全国の縁あるお寺でどんどん開催させていただきたいと思っています。いずれは、わざわざイベントというかたちを取らなくても、ご縁にしたがって集まった人たちが、なにものでもないもの同士、誰のものでもない「いのち」の対話を、日常的にたのしめるような場として、日本全国のお寺が、ひいては世界中の宗教施設が開かれていったら、ほんとうに、ものすごく素敵だなあ、と……。そんな未来を密かに夢見つつ、精力的に活動を展開していく予定です。みなさんも、ご縁があれば、ぜひ、お気軽に「Temple」に遊びにいらしてくださいね。お目にかかれる日をたのしみにしています!
 
——ぜひ、関西にも来て下さい。ありがとうございました!

お坊さん、地域で生きる人、職人さん、企業経営者、研究者など、人の話をありのままに聴くインタビューに取り組むライター。彼岸寺には2009年に参加。お坊さんインタビュー連載「坊主めくり」(2009~2014)他、いろんな記事を書きました。あたらしい言葉で仏教を語る場を開きたいと願い、彼岸寺のリニューアルに参加。著書に『京大的文化事典 自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)がある。