お寺に仏教はない!?動的なお寺のとらえ方

お寺の掃除から教わったこと

当たり前のことに気づく。そういう経験ありませんか?
どうしてこんな当たり前のことに、今まで気づけなかったんだろう。
目の前に当たり前にあったのに、どうしてこんなに時間がかかったんだろう。
気づいてみると不思議に思いますが、でもやっぱり、自分にとってはその気づきを得るために、それまでの活動や時間が必要だったんですよね。
私の最近の大きな気づきは、昨年から始めた「お寺の朝掃除」の会での会話でした。

以前も少し書きましたが、昨年の秋からTemple Morningというタイトルで、東京のお寺で朝掃除の会を2週間に1度ほど始めました。

「【Temple Morning x月x日 AM7:30〜8:30】 お寺から一日を始めませんか? 出勤前、お寺でお坊さんと一緒にお参り・掃除・お話。無料、手ぶらOK、誰でも歓迎、途中参加離脱OK。雨天時は屋内で。神谷町光明寺のお寺カフェ集合!」

とツイッターで呼びかけると、10名〜20名ほどが集まって、お経を読み、掃除をし、説法を聞いていかれます。お寺を掃除することはお坊さんにとっては当たり前の日常ですが、そうでない方にとっては特別な体験となっているようで、毎回私もいろんな気づきをいただきます。

大きな気づきがあったのは、初回からずっと参加されているユミさんが言った「境内の掃除を通じて、このお寺が私の聖地になっていくんです」という言葉です。

なるほど「聖地がある」ではなくて「聖地になる」「聖地になっていく」のかと。

それは静的ではなく、動的なもの。

「人は生まれによってバラモンとなるのではない。行為によってバラモンとなる」という釈尊の言葉を思い出しました。

ひるがえって、私はお寺を静的に捉えてしまっていなかっただろうかと。

お寺に仏教は”ない”、から始めてみる

聖地がある、ではなく、聖地になる、聖地になっていく。
お寺は初めから聖地なのではなく、関わる人の行為によって、その人にとっての「私の聖地」となっていく。
お寺を静的にではなく、動的に捉えてみる
この気づきは、私にとって大事な意味を持ちました。

お寺という聖地を護持することは、仏教の根本である三宝(仏法僧)を護持することであると言っていいでしょう。現代のお寺で考えると、仏=ご本尊、法=祖師の言葉(経典)、僧=仏道を歩む仲間、という三宝が整った聖地を護持することです。そのことを静的に捉えてしまうと、お寺にはご本尊があり、お経も備え、檀信徒がいるので、すでに三宝はそこにあり、ただそれを守ればいいという意識になってしまいます。「聖地があるから、それを守ろう」という意識です。

しかし、まさにその仏教が「縁起=すべてのものは相依って成り立っており、何一つそれそのものとして独立して存在するものはない」と説いています。すべては関係性のダイナミズムによって動的に立ち現れてくる。そのような仏教の縁起の見方に学ぶなら、ただ仏が仏として、法が法として、僧が僧として、独立して静的にあるのではなく、仏法僧が相互に関わりながら瞬間瞬間、動的に現前するという視点が大事なのではないか。そうすると、住職としてお寺を預かることは、「すでに固定的なものとしてそこに存在する仏法僧を変わらないように守る」ことではなく、「仏と法と僧が相互に関わり合いながら動的に顕現する流れを不断に整える」ことといえるのではないか。

私だけかもしれませんが、お坊さんをやっていて、お寺に関わっていると、前提として「お寺には仏教がある。だからそのお寺を守ることが仏教を守ることなんだ」という前提で、お寺を静的に捉えがちです。しかし、仏教が「諸行無常=一切は変化し、変わらずにあるものは何もない」と説くように、すべては変化しているし、すべては縁起的に瞬間瞬間、ダイナミックに立ち現れてくるもの。”ある”という前提から始めるから、いろんなことがおかしくなるんじゃないか。大事なことは、仏法僧が相互に関わり合いながら、今この瞬間に現前しているかどうか。お寺に”仏教がある”ではなくて、お寺という場に”仏教が今あらわれている”ことが大事なのではないか。ならばあえて、「お寺に仏教は”ない”」という前提から始めてみるのはどうか。

”ない”ならば、どうやって”出現させ”るか。そこに知恵や工夫が生まれてきます。たとえば、経営学の基本では「PDCAサイクルを回す」ことを教えられます。 Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)の 4段階を繰り返すことによって、業務を継続的に改善する。寺業計画書を書くにあたって、それはそれとして組織活動におけるマネジメント業務を円滑に進める手法としてお寺に役立てられるのですが、もう一歩先へ行けないだろうか。縁起や諸行無常という物の見方をベースとして、お寺を護持することは「仏と法と僧が相互に関わり合いながら動的に顕現する流れを不断に整える」ことであるとみて、Buddha(仏)→Dharma(法)→Sangha(僧)という「BDSサイクル」を回すことを意識してみるのはどうか。言葉遊びっぽく聞こえるかもしれませんが、そのサイクルにおいて仏とは何か、法とは何か、僧とは現代社会において何なのかという議論を徹底的にしてみることで、お寺だけでなく企業やNPOなどの組織が得られる示唆も出てくるのではないでしょうか。

未来の住職塾というチャレンジの成果

2012年4月に未来の住職塾を始めて、今年が7年目、最終年度になります。600名を超える受講者の皆さんとのご縁が何よりの宝です。最終年度まで毎年受講者が減ることなく(むしろ増えて)、このような挑戦的なプロジェクトをスタッフや受講者の皆さんと一緒に走り続けて来られたことに、心から感謝しています。

未来の住職塾は1年間のプログラムを通じて、一人ひとりが「寺業計画書」という名のお寺の見取り図を書き上げることを目標としてきました。お寺の世界は歴史が古く、遡ってオリジナルを確認することも困難な伝統を、過去からたくさん引き継いでいます。建物で例えるなら、お寺の当初の見取り図は散逸し、そのうえ増築に増築を重ねて、もともとの姿がわからなくなっているような状態で、預かっている人自身が建物の中で迷子になっているようなものです。ならば、一旦立ち止まって現在の姿を「寺業計画書」という鏡に映し言語化する作業が、お寺にとって必要ではないでしょうか。

寺業計画書のフォーマットは、あえて仏教に寄せずに、一般の組織で広く使われている経営の考え方をベースにしました。お寺は一般の組織とは成り立ちも存在意義も異なるので、それがベストとは思いませんが、”世間一般のベーシックなやり方”についてお寺の人が親しんでおくことも大事だと考えました。結果、それを書くことによって、お寺を預かる住職やお寺の家族、総代や檀家さんといったお寺に関わる人たちの意思疎通がスムーズになったという声をたくさん聞きます。また、受講者同士もお互いのお寺の見取り図について共通言語で会話できるため、それぞれの問題意識を明らかにして共有できる仲間ができたことも、大きな意義があったと思います。

未来の住職塾を第7期で終える理由はなにか?と聞かれると、いろいろな理由がありますが、大きくはこのプロジェクトの当初の目的が達成され、次の挑戦が始まる段階に来ていると感じたからです。未来の住職塾を始める前は、伝統仏教界の中に「お寺の経営」というテーマは全くといっていいほど存在していませんでした。宗門大学でも、修行道場でも、僧侶研修でも、祖師の教えを学ぶ機会はたくさんありますが、「お寺をどうするか」について考える機会はほとんどありませんでした。それが、未来の住職塾を始めた後は、経営的な学びを持つことの重要性を実感した卒業生たちが、卒業後にそれぞれの宗派で自分の問題意識を共有するようになりました。その結果、それまで全国各地・各宗派で開かれてきた研修会のテーマとして、新たに経営的な内容が取り上げられるようになり、さらにいくつかの大きな宗派では「お寺づくり」に関する学習プログラムを本山主導で公式に設定されるまでになりました。

今後は宗派を問わず、お寺づくりに関する学びを住職教育の重要な要素として組み込むことが、伝統仏教界のスタンダードとなるでしょう。もともと「なぜ、お寺の世界には、経営に関する教育がないのだろうか?」という問題意識で始まったプロジェクトです。受講したすべての仲間と一緒に進めてきたこのプロジェクト、成果は十分に出たと思います。どんなプロジェクトであれ、当初の問題設定に対して解決の方向が見えれば、その役割は終了します。経営的な視点から「お寺づくり」というテーマについて学べる環境が伝統仏教界に整いつつあるので、今後は各自、いろいろな選択肢を持って研鑽できるようになるでしょう。こうして未来の住職塾に関わった一人ひとりがそれぞれの手応えを感じられている状況を、誇らしく思います。あらためて、未来の住職塾を支えてくださった全ての人に、ありがとうと言いたいです。

寺業計画書のその先へ

振り返れば、これまでの未来の住職塾は、一言でいうと「昔ながらのやり方でやってきた古き良きお寺が、経営という現代社会の知恵を借りて、そのあり方をアップデートしよう」という方向性でした。それはそれでひとつの意義があったと思います。住職は宗教者であると同時に経営者。実際には、宗教者としての役割のほうが圧倒的に大事なんですが、だからといって経営者としての役割が消えるわけではありません。お寺が社会の中に存在する以上、社会のルールと歩調を合わせてやっていかなければならないし、宗教法人であり公益法人であるお寺を預かる経営者として、経営の最低限の基本を身につけることは必要。その担い手は象徴的には住職ですが、広くはお寺の家族や総代他、お寺のコアに関わる人すべてです。お寺を預かる人の研鑽の場として、未来の住職塾はそれなりの役割を全うしたと思います。

そして今、お寺を静的にではなく動的に捉えるという気づきから、未来の住職塾のその先に待つ次の新たな挑戦が見えてきます。確かに、昔ながらのやり方でやってきた古き良きお寺が、現代社会の知恵に学ぶべきところはある。しかし、今度は現代社会に目を向けてみると、それ自体が今、行き詰まりを見せていて、むしろ現代社会が仏教という古の知恵を借りて、そのあり方を変革しようとしているんじゃないか。とするならば、まさにそのお寺こそが、「仏教という古の知恵を現代に生かすとはどういうことなのか」を体現していくべきではないのか。今、一人ひとりの人生においても、社会システムにおいても、現代のあらゆるいきづまりを打破するヒントを、多くの人や組織が仏教の知恵に希望を見出そうとしている。ならば、一般的な経営という視点から「寺業計画書」を書いてみることの先に、今こそ必要なのは、現代のお寺や僧侶が仏教の知恵を今ここで体現していくということではないのか。

「日本のお寺は二階建て」を動的に見る

「日本のお寺は二階建て」論を書きました。日本のお寺は、一階が先祖教、二階が仏道という二層構造になっているという話です。人々の求めに応じて長年やってきたら、そのような二層構造になったという結果なので、それはそれでいいんです。ただ、私が感じるところ、お寺を預かるお坊さん自身がその二層構造をどう扱ってよいか分からずこんがらがっているので、お寺のBDSサイクルがもっとよく回るためにも、もう少し整理してみましょう。

すべてのお寺には必ずご本尊があります。ご本尊にもいろんな種類がありますが、基本的にはお寺は仏の家であり、静的な見方でいえば、「法」や「僧」は置いておいても、「仏」は必ず”ある”ところです。そして「仏=ホトケ」といえばもうひとつ欠かせないのは、お寺は死者供養を預かる場所であり、お墓や納骨堂や位牌堂などがあれば、ホトケとなった死者が眠る場所でもあります。その意味で、日本のお寺は「仏・ホトケ」が”ある・いる”ところとなっています。

日本には7万以上のお寺があり、その一つひとつに個性があります。しかし、実は皆、ご本尊は共通です。うちはお薬師さんだとか、うちは観音さんだとか、バラエティはありますが、「A寺の阿弥陀さんとB寺の阿弥陀さんは何が違うのか」といえば、基本的には違わないはずです。だとすれば、各々のお寺の固有性を何が生み出しているのか。おそらく「仏」ではなく「ホトケ」のほうなんです。A寺の阿弥陀さんとB寺の阿弥陀さんの本質は一緒だけれど、その阿弥陀さんに寄り添うように埋葬されたホトケの存在が、場所的な固有性を生んでいるのではないか。

もしお寺がシンプルに「仏の家」なのであれば、人口の変化に従って、どんどん引越しすればいいでしょう。しかし、そう簡単にいかないのは、お寺が「仏・ホトケの家」だからです。固有性のある死者の存在を含んだ場だから、強烈に土地に紐付いているんです。良いとか悪いとかじゃなくて、それが日本のお寺の特徴だと思います。フットワークは軽くないかもしれませんが、しかしそれが、仏だけでなくホトケの力も含んだ、土着的な聖地性を生む力にもなっています。

日本のお寺は仏・ホトケの家で”ある”。と、ここまでは静的な見方ですが、それで終わらず動的に見ると、さらに発想も広がります。お寺のが仏・ホトケの家として”あらわれる”ためには、何が必要なのか。BDSサイクルを回していくために、「法」と「僧」をどう関わらせていくのか。檀家や信徒といった旧来のシステムがあまりうまく機能していないのであれば、現代の人たちにとって「ホトケをお預けする」のに安心・信頼・納得できる仕組みはなんなのだろうか。仏教を現代に体現するということは、そのような問いを持ち続けていくことなのだと思います。

もちろん、日本のお寺のモデルは、檀家寺(先祖教メイン)だけでなく、祈祷寺や観光寺など他の形態もありますし、たとえ同じ宗派であってもお寺によって文化は大きく異なります。そのように幅のあるお寺を「二階建て」論においてどのように位置付けるかは、個別性も強いので一概には言えませんが、ひとつ忘れないでおきたいのは、今回の議論の起点はポスト宗教の流れを受けてのものであるということです。伝統仏教であれ新宗教であれ、カルト性の強い”宗教”的なグループのことは念頭に置いていないことを、あらためて言っておきました。

お寺の二階はオープンにして、空中回廊でつなぐ

日本のお寺は仏・ホトケの家であり、特に一階においては土着性の強い聖地としての機能を維持することが、これからも大事になるでしょう。住職は聖地の守人であり、聖地を聖地たらしめん要素として、本尊・伽藍のメンテナンス、死者供養、儀礼の執行、歴史の伝承、境内環境の整備、地域や季節の行事の盛り上げ、などが求められますし、静的ではなく動的な視点を持って聖地が「私の聖地になる」サイクルを回していくことが大事になるでしょう。儀礼には「型」が重要なので、宗派の存在意義はそのあたりに残っていくと思います。

では、仏道を求める人たちの行き来する二階をどう見るか。一階と違って、二階に来る人たちには土着性はそれほど求められていません。誰でも好きな時に来て、良き仲間に出会って、生き方や考え方のヒントをもらって、不安なく過ごせる居場所。来る者拒まず、去る者追わず。「入信しませんか?」的なオチのない自由な空間が、お寺の二階に期待されています。

私の提案としては、お寺の二階の壁はぶち抜いて、囲い込み的な発想のない「オープンテラス」にすると良いと思います。壁がなく、誰でも自由に出入りできる、ホッとできる場所。会員制などではなく、公園的なスペースです。無畏施が十分に行き届き、不安も恐れもなく、カルト的な雰囲気とは無縁で、風通しのよいサンガの集いの場。宗教にこだわりのない、いわば現代の巡礼者たちが自由に行き来する空間では、人々が生き方を定める上で『現代思想』の一つとしての仏教を参照・実践しています。

さらにイメージを膨らませれば、お寺を単体ではなくネットワークとして捉え、「あらゆるお寺の二階が空中回廊でつながっている」のはどうでしょう。一階は個々のお寺の土着性・個別性が強いですが、二階は分散型ネットワーク的につながることで相互作用が期待できます。空中回廊を伝って、現代の巡礼者がお互い自由に出入りできる。これが実現できれば、ポスト宗教の流れに沿ったお寺のあり方として、多くの人に喜ばれるはずです。

他所のお寺とネットワーク的につながってしまったら、うちのお寺としての固有性は保たれるのか?と思うかもしれませんが、お寺の土着的な聖地性が高まれば、一階だけでなく二階にもそれは当然波及します。一階であれ二階であれ、BDSのサイクルが回り、そこにお寺が”出現しているか”を見ていけばいいんです。他のお寺の二階とつなぐことで、より回遊性が高まって、二階と一階の関係には相乗効果が生まれます。結果的に、そのお寺の聖地としての固有性は高まると思います。

お寺の二階をどう使う?

イメージの話といえば、そうかもしれません。でも私は、少なくとも未来の住職塾の仲間なら、お寺同士がお互いに二階でつながっているこのイメージから、お寺づくりの発想が無限に広がっていくんじゃないでしょうか。

具体的に、お寺の二階をどう使うか? それはみんなの自由です。お寺の二階を自由に出入りする人たちが、仏法僧への敬意を持って、そのお寺がその人たちの聖地に「なる」ようなかたちで動的に関わってもらうなら、使い方は自由なのだと思います。

自分はそこで何をするか。今すでに、Temple Morningとして、お寺の朝掃除&読経&ミニ法話の会をやっていますので、それは続けたいですね。また、Temple Co-workingとして、お寺の一室を開放して、掃除に参加した人たちで希望者はそのままお寺で自分のパソコンを開いて仕事できるという環境も整えていますが、それも好評なので続けたいです。

新たに始めてみたいのは、お経の会ですね。みんなでお経を読む練習をしたり、お経の意味について勉強したりする会です。定期的に練習を重ねて、年に一度の法要などではみんなで声を合わせて読経したら、いいでしょうね。それと、法話の会ですね。朝の会ではせいぜいお話の時間は20分くらいしかとれませんので、夜などにもっとしっかり時間をとって、法話と座談を組み合わせた会をやりたいです。数ヶ月に一度くらい、たまにはそういった縁ある人たちみんなで集って、お寺でワイワイ飲み食いする時間も作りたいですね。あとは、念珠づくりとか、掃除に使うほうき作りとか、仏具磨きとか、得意な人がいれば教わってみたいです。

掃除、お経、法話・・・ 当たり前のことすぎて、今までのお寺と何にも変わらなくない? と思われるかもしれません。静的に見れば、その通りです。しかし、そうしたお寺の「当たり前」の中にある素晴らしさが、単なる当たり前として、静的な視点の中に埋没してしまっていないか。「何をするか」の問題ではありません。というか「何をするか」に関しては、むしろお寺が昔からやってきたようなことこそ、実は一番価値があったりするのではないでしょうか。ポイントは、それをどのような視点から、どのような雰囲気で、どのような仲間とするのか。そこに、BDSサイクルが回って、お寺がお寺として今ここに現れていると言えるか。わかりやすい見た目の変化じゃなくて、目には見えない質的な変化が起こることが、大事だと思います。

「うちのお寺は田舎にあるし、二階を開いても、人が来るかどうか・・・」と思う住職もいるかもしれません。確かに、過疎地などでは何かの会を開いても、十分な人が来ないこともありますね。だからこそ、お寺同士、二階を空中回廊でつなげておくことが有効なんです。一つのお寺で集まる人数が少なければ、つながっている近くのお寺と合同でやってもいいし、文化の似たお寺同士でグループを作り、スタンプラリーをしてもいいでしょう。

何か催しを開く余力がなければ、特別なことは何もせず、ただ「うちのお寺は二階を開けていますよ」というメッセージを発するだけでもいいんです。日頃は誰も二階に来なくても、たまに一人でも二人でも訪ねてくることがあれば、それだけでも十分に意味があったと言えるでしょう。お寺が「どうせ誰も来ないから」と二階を閉めてしまっていたら、行き場を失った人たちは、第二のオウムを頼っていかざるを得なくなります。だから、たとえ具体的には何もしなかったとしても、多くのお寺が二階をオープンに開いて空中回廊でつなぐイメージを共有・発信するだけで、私は何かが変わっていくんじゃないかと思っています。

まとめ

今回、考えたポイントをまとめてみます。
・お寺に仏教は”ない”という意識から始めてみる。静的から動的なお寺の捉え方へ
・「現代の経営を古き良きお寺に取り入れる」という寺業計画書のその先に挑戦しよう
・これからは「仏道を現代の人や組織として体現する」ことがお寺や僧侶に求められる
・一階は「仏・ホトケの家」としての機能を中心とした、お寺の土着的聖地性が大切
・お寺の二階はオープンテラス、それがお互いに空中回廊でつながっているイメージ
・掃除、お経、法話・・・ お寺の二階では当たり前のことを動的に

今後、考えるべきことはいろいろあります。「仏道を現代の人や組織として体現する」ことがお寺や僧侶に求められるというけれど、それを具体的にどのように学ぶのか。おそらく、未来の住職塾のように宗派や地域を超えた学びの場が、今度は経営という視点を超えて、仏道の視点からお寺や僧侶のあり方を問い直すような場が必要なのではないか。インターネットを活用して地域を問わず誰にでも開く工夫はしつつ、ポスト宗教的な流れを直接感じられるような、ライブ感溢れる学びの場が作れるといいなと思います。

経済のこともあります。「日本のお寺は二階建て」論においては、日本のお寺は一階で経済を回し、二階はボランティア提供という二層構造である、という話でした。一階が仏・ホトケの家で、二階が現代の巡礼者でにぎわうオープンテラス、というのはいいとして、その経済をどう回すか? いくつか言えることは、お寺の一階においては、いわゆる檀家制度が終わった(というか日本社会における家文化が終わった)今、現実に即応した新しいお寺の会員制度の設計が必要であるということ。また、二階においてはそもそも会員制度的なものが求められておらず、囲い込みのないオープンな「空中回廊」的な場として位置付け直し、個別のお寺に閉じないより公的なエコシステムをどのようにデザインするか。新しいお布施論が求められます。

さらに、現代の「勧進」も大いに検討の余地ありです。檀家制度の存在によってずいぶん画一化されてしまっていましたが、歴史を遡れば古くから勧進の手法はさまざまにあって、現代はクラウドファンディングなど再び勧進手法が多様化してきています。お寺が誰かの私物ではなく「みんなのお寺」としてオープンにすれば、お寺を維持する経済モデルを創造していく知恵やノウハウは自然と集まってくるのではないでしょうか。ポスト宗教の流れにおいては、檀家や信者を囲い込むモデルは終わっていき、一方で宿坊や写経といった文化体験や、長寿多死時代のエンディング周辺など、時代の変化に合わせて新たな抜苦与楽テーマが生まれてきます。従来の勧進の概念を覆すようなこれからのお寺のエコシステムをみんなで作りたいですね。

また、経済以上に重要なこととして、お寺を預かるチームの支援があります。”お寺”といえば代表である住職ばかりが目立ちますが、お寺の家族や総代といった人の存在が、ときに住職以上に、お寺が聖地として現前すること、BDSサイクルの護持に重要な役割を果たしていることが少なくありません。住職の影に隠れて見えなくなりがちな人々のエンパワーメントも、これからの最重要課題です。

次回は、未来の住職塾プロジェクトの成果を踏まえて浮かび上がってきた、取り組みたい今後の挑戦プロジェクトテーマについて、具体的に話してみたいと思います。お寺同士の二階を空中回廊でつなげてできる共同プロジェクトとなれば、一緒に始められるのはやっぱり、未来の住職塾の卒業生・修了生の仲間からでしょうね。結果は仏教界全体にフィードバックして、あらゆるお寺や宗派で活用してもらえるよう、みんなで協力して新しい挑戦をしていきましょう!

松本紹圭

東京神谷町光明寺僧侶。未来の住職塾塾長。 「ちりを払わん、あかを除かん」一緒にお寺で朝の掃除から、一日を始めてみませんか?