「死にゆく宗教」と「お布施2.0」

私はお坊さんになったばかりの頃、ライフスライスという機械を毎日首からぶら下げて過ごしていました。ライフスライスは小型のデジカメのようなもので、10分に一度、勝手にシャッターを切って、写真データを蓄積していきます。一日の終わりにライフスライスをUSBでパソコンにつないで、溜まった画像を取り込み、ブログで公開していたんです。

今でこそGoProで撮った動画をYoutube配信とか当たり前ですが、15年前の当時はまだ「アメリカでブログっていうものができて、これから流行る兆しらしい」と言われていた時代でした。「お坊さんは日々、どういう景色を見ているのか」に自分自身も興味がありましたし、きっと同じように興味を持ってこのコンテンツを楽しんでくれる人がいるかもと思って、無精な私が珍しく1年くらいは続けていたように思います。私の最初の著書『おぼうさん、はじめました。』(ダイヤモンド社)は、その写真と記事をまとめたブログ本です。

そのブログが、この彼岸寺というサイトが生まれる前身であり、私の原点でもあります。今回も、ライフスライスをぶら下げていた頃の気持ちを思い出しながら、私の視点から見える景色を素直に書いてみます。

「ポスト宗教」の流れはグローバルでとらえたい

私はこのブログの最初の記事に、「Post-religion」とタイトルをつけました。なるべく無駄にカタカナを使わないようにしているのですが、今回はどうしても使う必要があると思ったので、あえてカタカナ、というか英語表記そのままで書きました。それが、日本や仏教に閉じた話ではなく、世界や宗教という大きな枠組みにおいて感じられる変化であり、それが一人の”地球市民”としての私自身の日常感覚にも呼応しているからです。(その後の記事では、最初の記事を踏まえてもらうことを願いつつ、読みやすいようになるべく「ポスト宗教」と表記しています)

ポスト宗教という視点から見れば、日本にも昔から、「イズム化する宗教」に対抗する動きとして、ポスト宗教的な動きはありました。このブログのタイトルにもなっている中世の「ひじり」などはまさにそういう存在です。当時は国家公務員として特権を持っていた官僧に対して、衆生のためにと下野して市井で活躍した遁世僧たちから、鎌倉新仏教の流れにつながっていきます。そうして生まれた鎌倉新仏教も、やがては「イズムとしての宗教」として権威化・形骸化していく。近年では、「風景化」した伝統仏教に対して新鮮な仏道を求める若者たちを惹きつけたオウム真理教が、結局はなんともグロテスクなかたちで「イズムとしての宗教」化してしまうという、人間社会のカルト性を改めて示した事件がありました。

歴史は繰り返す。所詮、人間のやること。わかっちゃいるけど、やめられない。そう簡単に、クセは抜けません。残念ながら、カルトはこれからも生まれるでしょう。だからこそ、90年代当時から早いものでもう20年以上も経ち、そろそろ事件の記憶も薄れつつある今、成人する「オウム後」生まれの世代には、私の記憶を伝えていきたいと思います。

ところで、歴史は繰り返すとはいえ、時間を巻き戻して昔に還ることができないのも確かです。「今がダメだから昔に戻ろう」は叶いません。諸行無常、一切は過ぎ行くと、ブッダも言ってます。昔と今とでは、すっかり社会環境が変わってしまいました。日本仏教を取り巻く環境としては、近代化の過程で、キリスト教を代表とするReligionという枠組みにさらされました。グローバルスタンダードを受け入れるのか、拒否するのか。宗教組織は「民営化」され、日本仏教も他の宗教と横並びで「相対化」される中、何を軸に存続を目指すのか。これまで通りで居られないことだけは確かである、そんな状況でした。その後展開した近現代仏教の先輩諸氏方の奮闘の結果、今があります。

そして今、世界的に見られる環境変化としては、私が見るところ、マインドフルネスの盛り上がりが象徴するように、宗教という枠組みそのものが他の価値体系に対して相対化されつつあります。確かに、かつて日本が経験したように、高度経済成長期にある新興国では宗教という枠組みが未だそれなりに機能を発揮しています。社会システムや生活・情報インフラが不完全な社会では、宗教組織のような共同体に属することが安全・安心の土台となるからです。しかし、マズローの欲求5段階説で言う低次の欲求が十分に満たされた先進諸国において、特に社会の次代を担う若者たちの間では、「若者の教会離れ」が象徴するように、伝統的な宗教が提供する枠組みはほとんど意味をなさなくなっているように見えます。私は、Religionという枠組みそのものがグローバルで時代的役割を終えつつあると感じています。そのような意味での、ポスト宗教です。

誰もオウムを笑えない

先日、新聞社の取材で「90年代のオウム真理教事件を振り返る」というインタビューを受けました。そのときに記者さんとお話ししていて出てきたのが、「オウムは他人事じゃない」ということです。ひとつには、親鸞聖人が歎異抄で「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」と言ったように、縁さえあれば殺人だって犯すのが人間というものであるという話です。切実に生きる道を求めた結果、オウムというカルト教団の信者となった若者たちは、決して他人事とは思えない。でも、もうひとつあるのは、たとえ幸いオウムとは縁がなくって、たまたま自分はオウムには入らずに、公務員とか大企業とか、いわゆる世間的に恥ずかしくないような組織の一員として働いていたとしても、上司からの理不尽な命令を忠実にこなし、社会の慣習やルールに納得がいかなくても従い、結局やっていることはマイルドカルトであり、オウムと本質的には違わない構造の中にいたのではないかと。今だって、イズム満載の社長の作詞によるモチベーションアップ社歌を社員全員で毎日歌わされる企業など、あちこちにあることでしょう。オウム真理教を、「宗教」というカテゴリに押し込めて見てしまえば、「やっぱり宗教はおかしいね」という話で終わりです。でも、宗教だろうとなんだろうと、それは人間がやったことであり、よく見れば人間社会の隅から隅までオウム的なものが浸透していない場所はありません。だから、オウム事件から私たちが学ばねばならないことは、「やっぱり人間はおかしいね」です。

また、ポスト宗教の流れについて考える上で今、決定的に過去とは違う時代環境としては、インターネットを中心とした情報技術の進化があります。かつては地縁血縁を基盤として作られたコミュニティ内で生きるしかなかった人は、たとえそのコミュニティに何か違和感を持ったとしても、そのおかしさを比較する手段がなく、外部へ発信・交流することもできませんでした。だから、自分の属する会社や地域社会や家族といったコミュニティがどんなにいびつなものであっても、「閉じた系」の抑圧構造に自らはまり、同化・維持する他はなかったんです。仏教界でいえば、住職は地元地域に張り付いて先代と同じようにやっていく他はない孤独な存在でしたし、地域の離れたお坊さん同士がつながるほぼ唯一の機会は、宗派というコミュニティに出ていくことでした。

しかし、今はまったく違います。SNSがきっかけとなって起こった「アラブの春」や、ハッシュタグ#me tooの広がりは、要するに情報技術革命によって、人間は自分の置かれた状況に対して、おかしいことがおかしいと分かり、同じくそれがおかしいと思う仲間を見つけ、おかしいことはおかしいと一緒に声を上げられる、そういう時代になったということです。以前は「閉じた系」の中に隠されていたおかしなことが、通用しなくなったんです。もちろん、世の中にはまだまだおかしな会社やおかしな役所やおかしな宗教がたくさんありますが、少しずつ淘汰されていくでしょう。

死にゆく宗教

宗教は本質的にイズムであり、程度の差こそあれカルトであって、「宗教」というわかりやすいそのものずばりのカテゴリ以外にも、それが人間社会にあまねく浸透している枠組みモデルであるとすれば、今、情報技術革命によって世界的に起こっていることは、人間社会のあらゆるカルト的事象の可視化であり、それは「イズムとしての宗教」の終焉を告げるものであるように感じられます。お坊さん社会を見ていても、かつては不可能だった「地域や宗派を超えて仲間とつながり日々交流する」ことがインターネットによって実現されたことは、フェイスブックなどを見ていれば明らかです。未来の住職塾もインターネットがなければ決して実現することはできませんでした。私がお坊さんになってからの15年間を見ても、伝統仏教界の原理主義志向、カルト度合いはかなり低下したと感じます。

かつてニーチェは「神は死んだ」と言いました。それに倣えば、すでに「宗教は死んだ」のかもしれません。はっきりとした死亡確認にはまだ時間がかかるでしょうけど、後世から振り返ったとき、今という時代は少なくとも、人類の歴史始まって以来続いてきた宗教という枠組みの臨終期であったと評価される可能性は、十分にあるような気がします。いや、これだけ長く生きながらえてきたものが、ある日突然消えることはないでしょう。これからもたくさんの、プチ宗教、プチカルトは生まれ続けるはずです。人間だもの。でも、かつての世界宗教のような大掛かりな大仕掛けが再現することは、おそらくないでしょう。

一方、環境変化に素早く反応するビジネス界は、いち早く「イズムとしての宗教」的な組織形態を抜け出し、ティール組織などと言い始めて、イズム的なモデルから抜け出そうとしているようです。人類の歴史における組織の進化を、色の波長で表現すると、まったく新しいマネジメント手法を採用する「ティール(進化型)組織」が世界各地で生まれる一方、一般的な宗教組織は時代遅れの「アンバー(順応型)組織」として、軍隊や官僚組織と並んで位置付けられています。個人的な興味として、釈迦牟尼ブッダの時代の出家者組織は、間違いなく一般的な「宗教」が採っていたアンバー組織ではなかったはずで、それが最新の組織論においてどのように位置付けられるのか、興味のあるところです。

 

宗教は死に、仏道は息を吹き返す

「宗教は死んだ」なんて、「宗教者」としてのアイデンティティが強い人にとっては到底受け入れがたい考えかもしれませんが、仏教にとってはむしろチャンスというか、やっと宗教という枠組みから外れて本来の価値を発揮できる、とてもやりやすい時代が来たとも言えるのではないでしょうか。世界のメジャーな宗教で、宗教者自ら「宗教は終わった」とか言い出しそうな宗教なんて、仏教くらいなものです。Post-religion、宗教が終わった時代には、仏教、もう少し丁寧に言うならば仏道が世界で注目されるのは必然です。仏道が本来、「イズムとしての宗教」ではなく、合理的にものの道理を記述した思想体系だからです。仏道にフィクションはありません。というか、世界と自己に巧妙に隠されているあらゆるフィクションを見破る智慧です。人々は、自分の頭で考えて行動すること、自分の心と身体に敬意を払って生きることを、今までよりもずっと大事にし始めています。繰り返しますが、「仏教という宗教」が求められているのではありません。ポスト宗教の流れにおいては、国籍や人種や宗教の違いを超えて、あらゆる人にとって、自らの生き方を考える上で参照先となる『現代思想』として、仏教が価値を持つということです。歴史上、仏教の真価がこれほどまでに発揮される時代環境はなかったのではないでしょうか?

あ、そうか。

こんな書き方をすると、なんとなく、逆に私のことを原始仏教原理主義かと思う人もいるかもしれない。ぜんぜん、そうではないです。確かにインドは好きですが、お釈迦さまの時代に戻ろうよ、と言っているのではありません。私の仏道は念仏です。浄土真宗のお坊さんだから、ではなくて、ただ自分には、そうなんです。「あんまり難しいことはわからないし、心も身体も鈍感だけど、それでもやっぱりそれなりに、自分の頭で考えて行動したいし、自分の心と身体に敬意を払って生きたい」という私にとって、自らの生き方を考える上で参照先となる『現代思想』が、念仏だということです。ポスト宗教の流れでマインドフルネスや瞑想が注目されているので、上座部系や禅系の仏教が優位な感じがするかもしれませんが、私はそうでもないんじゃないかと思ってます。日本仏教は祖師仏教であり、今はずいぶん「イズムとしての宗教化」してしまっていますが、たいていイズム化させたのは中興の祖であり(それはそれとして意義もありますが)、大本の祖師の思想には、現代人が学ぶべきものが大いにあります。禅宗や密教のように瞑想法を持たないからって、浄土系も、日蓮法華系も、肩身の狭い思いをすることはないんです。

二階のファシリテーターに求められるもの

前回の記事「お寺の新しいエコシステムを創造する」において、「日本のお寺は二階建て」という見方を紹介しました。日本のお寺のほとんどは、一階の先祖教で経済を回して、二階の仏道はボランティアで提供しているという話です。ここで二階をさらに詳しく見るならば、二階の仏道を求めてお寺へ来る人にとって、その仏道とはたいてい「釈迦牟尼ブッダの仏道」です。しかし、提供するお寺側の意識としては、浄土真宗のお寺なら親鸞、曹洞宗のお寺なら道元といった「宗派祖師の仏道」なんですよね。これまた大きなミスマッチです。

お寺の二階のコミュニティ(サンガ)を元気に健やかに育てるファシリテーター役に求められるのは、釈迦牟尼ブッダの仏道とは何か、そして、念仏なら念仏といった自分自身の仏道がいかなるものであり、その仏道が釈迦牟尼ブッダの仏道とどのように関係するのかを、コミュニティの仲間にわかりやすく説明できる能力でしょう。

たくさんの宗派が存在する仏教の状況は、よく山登りに例えられます。お寺の二階のファシリテーターは、「成仏する=仏になる=目覚める」ことを山の頂点とするならば、その頂点はいったい何なのか、そしてそれを目指してさまざまなアプローチがある中で、自分の親しんでいるアプローチはどのような特徴があるのか説明し、歩もうとする人に助言や支援を与えることができる、ヒマラヤ登山のシェルパのような存在とも言えるでしょうか。シェルパは登山の基本をしっかり押さえた上で、さまざまな登山ルートにも精通しており、そして、自分の得意とするルートを確立している。自ら日頃から山に親しみ、初心者には登山の魅力を伝え、その人にあった登山をアレンジして支援し、登山者同士のコミュニティを盛り上げます。シェルパは、現代の登山の全体像を把握した上で、異なるアプローチを持つ優れた他のシェルパとも親交し、必要に応じて紹介したりできるとなお良いですね。

最近の登山の特徴は、山の天気の変化が以前にも増して激しいことです。つまり、人間の寿命は延びた一方で、社会の変化の速さは増すばかり、一人の人が抱えて乗り越えなければならない人生苦が多様化・複雑化しています。釈迦牟尼ブッダの説いた教えの基本をあらためて現実世界に落とし込む必要がありますし、各祖師の教えが仏道ルートとして現代においてどれほど妥当性があるのかも、よくよく確かめていく必要があります。過去には役に立った地図も、今はもはや現実に対応しておらず、遭難してしまう可能性がないとは言えません。

一階への布施を二階で受け取るミスマッチ

このブログでこれまでに書いた3つの記事をめぐって、いろいろなご意見や議論を拝見しました。その中で「日本には、出家者が修行を維持できる経済システムができていない」という指摘がありました。いかなる人間の営みにおいても、その持続可能性を担保するために経済を回すことが欠かせません。私が日本仏教のこれからの経済システムを考える上で避けて通れないだろうと思うのは、「布施」に関する議論です。お布施といえば、一般的には「檀信徒が葬儀や法事でお坊さんにお経を読んでもらうときに包むお金」くらいの認識だと思いますが、一方で僧侶側としてはおおよそ「出家者である僧侶が在家信徒に仏法を説くのが法施、信徒が自身の気持ちから仏法側に金品を施して功徳を積むのが財施」というようなことになっています。

しかし、この布施に関する議論も、「日本のお寺は二階建て」の視点から見てみると、かなり大きなミスマッチが生まれています。というのは、一般の側からすると、先祖教というお寺の一階に対してお布施をしているのに対して、僧侶側は、仏道というお寺の二階でそれを受け取っているつもりになっているからです。お寺の二階の仏道に対してまったく興味も関心もなく、「とにかく坊さんはうちの先祖の墓を守ってくれていればそれでいい」という、お寺の一階にしか関わらない人たちに対して、仏教の伝統的なお布施論を適用するのは、かなり無理があるのではないでしょうか。もちろん、先祖教の領域も宗教的な価値の一つですから、いわゆるビジネス的な対価(課税)ではなく、僧侶の宗教行為に対して気持ちから為す寄付金的なもの(非課税)として扱うことは、まったく問題ありません。しかし、それを「布施」という仏教の教義的な文脈に無理やり当てはめることは、むしろ仏教文化の中で大事にしてきた布施の理念を壊してしまうことにもなりかねないと、心配します。

 

そろそろ「お布施2.0」を考えたい

「布施」ってほんとうは、素晴らしいコンセプトなんですよ。布施はダーナであり、旦那とか、ドナーとかの語源にもなっています。檀家の「檀」も同じです。布施には大きく三種類あります。仏法を施す「法施」、金品を施す「財施」、そして怖れを取り除く「無畏施」です。お坊さんの間では、だいたい「僧侶が仏法を施し、それに対して信徒が金品を施してその活動を支える」というような意識で捉えられているように思います。そして3つ目の「無畏施」は埋もれてあまり注目されない感じです。確かに、そのような捉え方は、出家者としての僧侶の位置付けが確立され、教団全体を維持するための経済システムが社会慣習にも根ざしているような上座部仏教の文化圏では、それなりに当てはまるでしょう。僧侶が仏法の担い手として尊敬されていますし、少なくとも仕組み上、僧侶は財を所有することができませんので、財施ができるのは原理的に信徒のみになります。

しかし、日本仏教のように僧侶に戒律が定着せず在家仏教化が進んだ文化において、同じように意味付けることは難しいのではないでしょうか。宗派の僧籍を持つ僧侶でなくとも法施のできる人はいますし、日本の僧侶はふつうに家庭を築き財産を持っていますから、財施の担い手が信徒に限られる必要もないでしょう。そして、私は最近特に注目しているのですが、今まで見過ごされがちだった3つ目の「無畏施」こそが、現代の日本仏教で最も大事にされるべき布施ではないかと思います。一度失敗したらとことんまで叩かれ、再チャレンジが許されない。その結果、若い人も尻込みして新たなチャレンジも生まれない。将来への不安が広がり、お年寄りも若者も身動きがとれなくなっている。貧富の格差が広がって、社会は分断されていく。こういう時代だからこそ「無畏」、つまり、なんの不安もなく、そのままの自分で安心していられて、恐れずに勇気を持って歩んでいける心を、お互いに布施し合うことが大事ではないでしょうか。

お釈迦さまは、サンガが大事、仲間が大事と言いますが、誰も他人の人生を代わりに生きることはできません。お互いに恐れを取り除き合うことで、一人ひとりが何にも依存せずに自立し、それぞれが自分自身の本来持っている力を発揮できるようにするのが、仲間の存在意義なのだと思います。法施や財施も、無畏施という土台がなければ、俗世に蔓延する依存や抑圧の構造と同じものへと引きずり堕ちてしまいます。ポスト宗教の視点から言うならば、まさにこの「無畏施」がしっかりとなされているかどうかが、仏道と「イズムとしての宗教」を明確に分かつものであり、また「うちの教えを信じなければ不幸になりますよ」などと言って人の恐怖心を布教に利用するカルト宗教の手口を見破るポイントにもなりますね。従来のように僧侶と在家信徒という役割に分けて解釈するのではなく、こうして「仏道に学ぶ人の生き方」としてお布施論を新鮮に見直したとき、私たちが取り入れられる実践のヒントが見えてきます。そろそろ日本仏教のあり方に対応した「お布施2.0」を考えてもいい時期にきていると思います。

今回もあれこれ話しました。
ポイントを振り返ると、

・現在のポスト宗教の流れは日本だけでなくグローバルの文脈でとらえたい
・宗教が終わろうとする時期に、仏道への注目が高まるのは必然
・マインドフルネスブームだからって、禅宗や密教系が優位というわけでもない
・釈迦牟尼ブッダと宗派祖師の仏道のつながりと今日性を押さえよう
・「日本のお寺は二階建て」視点から見た、伝統的お布施論の限界
・お布施2.0とは? 法施と財施は僧俗関係なし、時代的には無畏施が大事

でした。

「ポスト宗教」や「日本のお寺は二階建て」の議論から、だいぶいろいろな論点が出てきましたね。記事の感想などあれば、ツイッターでもメッセンジャーでも、ぜひ気軽に共有ください。みんなで一緒に考える材料にさせていただきたいと思います。

次回あたりからは「じゃぁ、具体的にどうしたらいいの?」という話を、もう少し一緒に掘り下げて考えていきましょう。二階建て構造の先に、どんな未来のお寺のかたちが待っているのでしょうか? では!

松本紹圭

東京神谷町光明寺僧侶。未来の住職塾塾長。 「ちりを払わん、あかを除かん」一緒にお寺で朝の掃除から、一日を始めてみませんか?