お寺の新しいエコシステムを創造する

新しく始まったブログも3回目になりました。
初回の記事は「ポスト宗教」、二回目の記事は「ポスト宗教とこれからの日本仏教」でした。そして今回は「お寺の新しいエコシステムを創造する」という記事になりました。またも長文の上、前回までの記事が前提となっていますが、よければお付き合いください!

 

日本のお寺は二階建て

未来の住職塾では、全国のいろんな宗派の住職たちが集って「お寺作り」というテーマで議論をします。開かれたお寺、老若男女が集うお寺、賑わいのある元気なお寺。表現はそれぞれ違えど、人のためになる良いお寺を作りたいという思いは皆共通しています。お寺マルシェとか座禅会とか子供会とか、皆いろんなイベントを企画して、檀家・非檀家かかわらず広く誰にでも参加してもらってお寺を盛り上げるのですが、最後に「これって結局、何につながるんだっけ?」「この先にどういうゴールが待っているんだっけ?」という問いにぶつかります。

企業でいえば、プロモーションイベントをやって、最後に商品を買ってもらったり、サービスに契約してもらったり、そういうことがゴールになるわけですけど、お寺の場合はどうなのか。来てくれた人に、檀家になってもらえばいいのか、お墓を買ってもらえばいいのか、お葬式を依頼してもらえばいいのか。いやいや、そうじゃない。お寺の目的は仏法興隆だから、法話会に来てもらったり、唱題行に参加してもらったり、坐禅や写経を実践してもらったり、とにかく仏縁を持ってもらおう。宗祖の言葉のひとつでも覚えて帰ってもらったらいいじゃないか、と。しかし、お寺も独立した法人ですから、経済が回らなければ仏法興隆だって持続できません。そこの整合性を、どう取るのか。

私は以前から、「日本のお寺は二階建て」と説明しています。日本のお寺は二つの機能を担っている。一階は先祖教を中心とした日本仏教、二階は仏道。一階は檀家のためのスペースで、二階は仏道を求める人ののためのスペースです。(このあたり、詳しくは前回の「ポスト宗教とこれからの日本仏教」記事をご覧ください)別の言い方をすると、一階は死者を中心としたスペースで、二階は生者のためにあるスペースであると言ってもいいでしょう。前回の記事でいえば、一階は水平方向の機能を、二階は垂直方向の機能を担っていることになります。

お寺の運営は基本、一階の先祖教で経済を回して、二階の仏道はボランティアで提供しています。中には少なからず、二階が長い間使われていないお寺や、そもそも平屋建てで二階が存在しないお寺もありますが、ここではそれは脇に置いておきます。一階と二階を備えたお寺を想定したときに、二階建てのお寺の問題は、玄関が一階にしかついていないことです。二階に上がるには、まず必ず一階を通らなければいけない。そのために、深刻なミスマッチが起きています。

檀家の人で、「とにかくお寺は先祖供養の場所、ご先祖様が眠るところ、墓参りに行くところ、葬式や法事をお願いするところだから、住職はとにかくご先祖をちゃんと守っていてくれればそれでいい」という人はたくさんいます。ほとんどの人が、そうかもしれません。その人たちは、二階の仏道にはまったく興味がないのだけれども、熱心な住職は皆を二階に連れていこうとする。興味のない人を無理やりに二階に引っ張って行って、法話を聞かせたりするわけです。それが一つ目のミスマッチです。

もう一つのミスマッチは、檀家ではないけれど「一度、坐禅をやってみたいな」「お坊さんに仏教のお話を聞いてみたいな」などと思う人が行きたいのはお寺の二階なのに、玄関は一階にしかついていないことです。仕方がないから一階から入ろうとすると、「あなた、檀家ですか?」となるわけです。実際、そんなふうには言われないですけど、言われそうだから入りにくいですよね。極端な話、家族の誰かが亡くなってからでなければご縁が持てないお寺になってしまっているわけです。それでも頑張って、一階に入ってみると、そこにいるのはほとんど二階に興味のない人ばっかりで、場違いなところに来てしまったことを後悔するでしょう。

もちろん、檀家の中にも一階でご先祖を敬いながら、二階の仏道も大事にする人もいますが、それは全体からすると少数派です。

 

二階部分の経済を創造的に回してみる

そのような日本のお寺の状況に対して、私は「二階へダイレクトに上がれる外階段をつけてはどうですか」と提案してきました。死者にまつわることを求める人は一階へ、仏道を求める人は二階へ直接どうぞ、というやり方です。それなら混乱も少なくなるし、それぞれにより快適に過ごせることでしょう。言ってみれば、二世帯住宅みたいな感じです。しかも、一階に集う人たち(たいていは先祖を大事にする檀信徒のおじいちゃんおばあちゃん)がお金を出して建てて維持してくれている建物を、二階の仏道を求める人たち(比較的若い世代)が格安あるいは無償で使わせてもらっているという構図が、まさに日本によくある二世帯住宅の有り様そっくりです。

これまで私がどうしてもわからなかったのは、今はいいとしても、今後、一階に集う人たちの高齢化がさらに進行して、一階の経済を支える人がどんどん減っていったとき、どうやってこのお寺全体を維持していったらいいのかということです。今まで、基本的には無償で提供していた二階のスペースを、今後は有料にして家賃を取らなければならないのか。どうやってこの全体の経済を回していくのか。なかなかの難問ですが、最近少し、これからの方向が見えてきた気がしています。

まずひとつ、重要なのは、一階の経済を立て直すことです。これまでは一階は檀家制度という会員システムで回してきましたが、もはやそのシステムは機能していません。なぜなら、家制度が崩壊しているからです。もちろん今後も家を大切にして先祖のお墓を守りつづける檀家が消えるわけではありませんが、全体のパイが大きくなることはあり得ません。今、求められているのは、言ってみれば「家制度が崩壊したポスト檀家制度時代における、お寺の新しい会員システムの設計」です。家制度が崩壊したからといって、死者を弔い敬う気持ちが失われるわけではありません。事実、日本社会の中で「つながり」「きずな」は以前にも増して重要な価値になってきています。それが従来のイエという価値感と重ならなくなっているだけで、一階は一階で仕組みを再設計すれば、十分にお寺が果たすべき役割をこれからも発揮し続けることができるでしょう。

そして、もうひとつは、二階は二階で独立したエコシステムを回せるよう、さまざまな実験をしてみることです。無料だったものがいきなり有料になる話ではなくて、お寺の二階が社会に対して提供している目に見えない無形の価値を掘り起こし、それを大切に思う人たちの力を集めて支える仕組みを作るということです。

旧来のビジネス的発想で考えると、二階部分だけで通常の経済を回すことは至難の技ですが、今はこれまでの資本主義経済も変革期に入っています。クラウドファンディングなど新しい資金調達方法も生まれているし、遺贈など寄付市場も盛り上がっています。シェアリングエコノミーや仮想通貨など新しい経済循環も動き始めています。人々の価値観が大きく変わってきている時代です。楽観的かもしれませんが、そこから価値が生まれている限り、それを支える手段は支援は何かしら、得られるでしょう。

世の中にはNPOなど非営利法人がたくさんあり、ダイレクトにお金を生み出す組織や仕組みでなくとも、社会に対して何らかの価値を提供して継続・発展しています。宗教法人も公益法人であり、非営利法人です。あらためて、公益法人のひとつとして社会にどのような無形の価値を提供するのか、創造的に考えてみたいですね。

考えてみれば、お釈迦さまの初期の仏教教団は、ものすごく創造的なエコシステムを回していました。仕事もしないし、畑を耕して自給自足などもしない、まったく何も生み出さない僧侶たちの無生産集団が、インドで生まれた初期の仏教教団でした。しかし、彼らとてまったくご飯を食べなければ、死んでしまいます。托鉢のみが生命線。そこでとった戦略は、「とにかく人々から尊敬されること」だったわけです。尊敬される集団であれば、托鉢が得られる。

もちろん、ご飯が欲しくて尊敬される振る舞いをしていたというわけではなくて、修行環境を整えるためには、とにかく人から尊敬される集団であることが一番大事だったのでしょう。クレームが入れば即座に対応、毎回「申し訳ございませんでした。今後、そのようなことが決して起こらないよう、禁止ルールを加えます」としていった結果、たくさんの戒律が生まれました。

ポスト宗教の流れを受けて、日本のお寺も、初期の仏教教団のようにエコシステムを創造的に再構築することができるでしょうか?

 

仏道を求める人が「仏教徒」と名乗れないわけ

よくある宗教ネタで、「日本の人口は1億2千万人、そのうち1億人が仏教徒で、1億人が神道だ」という笑い話があります。お寺からすれば、お寺にお墓を持ったり葬儀や法事を頼んだりする檀家は、当然仏教徒であることになり、神社からすれば、氏子や参拝者は皆神道ということになります。しかし、それはあくまでも売り手(押し売り?)側の論理であり、買い手側の意識とはずいぶんかけ離れています。

先日、『入門 近代仏教思想』を書かれた碧海寿広さんとお話しした際に、
・ 日本人は「無宗教」を自認する人が多く、自覚的な信仰者は約3割にとどまる
・戦前(近代日本)は「宗教」の時代だったが、戦後になって「無宗教」が増えた
というお話がありました。確かに「私、信仰を持っています」と明確に言える人は、お寺の法事で来られる檀信徒の中にも、多くはないかもしれません。

私の友人には、仏教的な価値観や考え方に共感し、自分でもいろんなお寺に行っていろんなお坊さんと話をするような、仏道を求める人、お寺の二階に出入りする人がたくさんいます。でも、その多くが「自分のことをなんと言っていいのかわからない」という気持ちを持っていて、割と悩んでいます。檀家や信徒としてお寺の一階に出入りしているわけでもないから「私、仏教徒です!」と言うには気がひけて、なかなか言えないようです。

今、彼岸寺で「mother’s wake」を書かれている杉本恭子さんもその一人。かつて、杉本さんはコ・ブディストという言葉を作り出しました。医療の世界で、コメディカルという言葉がありますね。医師のもとに、看護師やケアワーカー、その他いろんな専門職がコメディカルとして集い、チーム医療を提供しています。それにちなんで、お坊さんではないけれど仏教に惹かれて学び支える仲間を、コ・ブディストと呼んでみてはどうだろうと。彼岸寺ではそれ以前に、僧侶も檀信徒も仏教学習者も、ぜんぶまとめて表現できる何かいい言葉はないかと考え、「仏教人」という言葉で紹介していたこともあります。

他には、Templeを主宰して、多くのお坊さんとも親交のある小出遥子さんは、「在俗の仏教ファン」と名乗っていますね。男性社会の仏教界の中で、女性として、お坊さんでも何でもない若輩の自分が仏教に関連することを発信するにあたって、いろいろ思うところがあったのでしょう。

一方、「仏教徒」といえば、私がこれまで一般向けの講演会などに呼ばれたとき、講演後に駆け寄ってきて「いいお話しをありがとうございました!私、仏教徒なんです!」という人は、十中八九、真如苑の人でした。これもなかなか象徴的な体験でした。

何をもって、仏教徒というのか。お寺側が深く考えることなく「檀家であれば、仏教徒だろう」という意識でいることが、知らず知らずのうちに、仏道を求める人たちをして、「仏教徒」であると名乗ることが憚られるような雰囲気を作り出しているのかもしれません。仏道を求める人たちに対して、お寺の二階にちゃんと安心できる居場所を持ってもらえるように、環境を整えたいですね。

 

ポスト宗教が伝統仏教界にも流れ込んでいる

お寺の二階の居心地が良くなかったり、そもそも二階が存在しないお寺にがっかりすると、仏道を求める人たちは、いわゆる伝統的なお寺ではないところ、僧侶ではない人に、集い始めます。

わかりやすい例で言うと、『仏教3.0』を書かれた藤田一照さんの塾や学林に集まっている人たちは、ポスト宗教的な感覚を持った人たちが多いと思います。誰もそこに、仏壇の飾り方や墓じまいの仕方とか、曹洞宗の法要の作法についてとか、聞きに来ているわけではないはずです。そこに集っているのは、ずばり仏道の本質や、仏道を自分の人生や生き方にどう活かすかに、興味のある人たちです。もちろん、参加者の中にはお坊さんもいるし、先祖の菩提寺の檀家もちゃんとやっているという、水平・垂直併用の人もいます。

同じく『仏教3.0』を書かれた山下良道さんの一法庵も同じですね。一法庵に来られる方の中で、象徴的なのは、仏教や瞑想を学びにくる人の中に、キリスト教の神父さんもいらっしゃることです。神父さんですから、宗教としてはクリスチャンであり、仏教に改宗するつもりもないでしょう。しかし、そういう方が、良道さんの元に集い、真剣に坐禅を組む。それは、お寺体験や観光といったレベルの関わりではありませんし、ご近所付き合いなどでもなく、深い探求心を持って来られています。その神父さんは、私の言葉でいえば、ポスト宗教感覚を持った宗教者と言えますね。

『仏教思想のゼロボイント』などの著書で知られる「ニー仏(ニート仏教徒)」さんこと魚川祐司さんは、ご自分は仏教徒ではない、と公言しておられます。でも実際、僧侶以上に深く仏教を探求し、仏教をもって人生を探求されています。魚川さんは、非仏教徒も含めた一般の現代人が、自らの生き方を定める上で貴重な参照先となる『現代思想』の一つとしての仏教、というふうに表現されていますが、まさにポスト宗教的感覚を持つ人の仏道との向き合い方が、わかりやすく示されています。

また最近では、評論家としてメディアでおなじみの宮崎哲弥さんが『仏教論争』など多数の本を著し、僧侶の間でも話題を呼んでいます。宮崎さんは「自分は仏教がなかったら今まで生きていなかっただろう」と言うほど仏教を大切にされていて、僧侶ではない立場から仏教のフロンティアを切り開いているという点で、やはりここにもポスト宗教的な流れを見ることができます。

このような現状を受けて、伝統仏教界が「今、世界的に仏教への注目が高まっている!やっと我々の時代が来た!」と反応するのは、ちょっと素朴すぎるでしょう。マインドフルネスの流れを受けての坐禅や瞑想への注目や、仏教思想への興味関心を持ち実践する、いわば”ポスト仏教徒”が増えているのは確かですが、お寺が旧来「檀信徒=仏教徒」と定義してきた意味での仏教徒は、これからますます減っていきます。起こっていることを都合の良いように解釈して、現実を取り違えてはいけません。しかし、仏教が言うように、如実智見、現実をあるがままに観れば、そこからお寺にはたくさんの可能性が見えてきます。

 

ポスト宗教では「布教」もパラダイムシフト

ポスト宗教的な感覚を持ちながら自らの生き方として仏道を求める人たちが増えている今、日本の仏教は何ができるのでしょうか?

「僧侶への尊敬」を軸とした、初期の仏教教団と同じような戦略を取れるでしょうか? 今は時代も国も違えば、置かれた状況も違います。厳密な出家教団と違って、日本の仏教は世俗化・世襲化が進んだファミリー教団です。初期の仏教教団と同じように、出家教団として素朴に「僧侶への尊敬」一点突破で行くやり方は、難しいでしょう。

日本のお坊さんは出家どころか、生まれた実家のお寺で一生を終えるという、ふつうの家庭に生まれた人よりも家に縛られた存在です。そんな中、反発して若いうちに出家ではなく「家出」をする跡継子息も少なくありません。むしろ僧堂での修行以上に娑婆での人生修行がその人の人生を深くしてくれることもありますから、それはそれで良いんです。私はお坊さんとの付き合いは地域や宗派を超えてかなり広いほうだと思いますが、個々に尊敬できる僧侶はほんとうにたくさんいます。世襲だからいけないとか、在家仏教的だから堕落しているというのではなく、仏教のあり方の個性としてポジティブに見ていきたいですね。

私は「日本の仏教は何ができるか」といったときに、その範囲を伝統仏教のお坊さんやお寺や宗派に限定するのではなく、より広い視野を持って捉えていくことが大事だと思います。アカデミズムで仏教を取り上げる人もそうですし、僧侶ではない立場で仏道を実践しフロンティアを切り開いている人もいますし、新宗教系の仏教徒にも素晴らしい活動はあります。

「われわれが仏教をなんとかしなくては」とお坊さんが必要以上に力む必要はなくて、むしろお寺の二階を積極的に開放して、仏道を求めるさまざまな人たちの集いの場となり、彼ら彼女らの活動を邪魔せず見守ることが大事なのではないでしょうか。そして、その場がカルト化せずに常に誰もが気持ちよくゆるやかなつながりを持てるような、オープンなサンガ・コミュニティをお寺が提供できれば、それは大きな魅力です。初期の仏教教団が「尊敬」を軸としたなら、現代日本では「オープンさ」を軸に集えると良さそうですね。

お寺の一階で主に先祖教としての日本仏教を担ってきたお坊さんが、それはそれとして捨てることなく一生懸命取り組みながら、お寺の二階を開放して自らもポスト宗教の自覚を持った一人として参加してみれば、きっと景色がガラッと変わります。一階では僧侶という肩書きが重要ですが、二階においては肩書きは意味を持ちません。立場関係なく、それぞれの能力や財力や人間関係などの資源を持ち寄って、これからの仏教を一緒に作ろうよという輪の中に、自分も一人の参加者として加わることです。新しい仏教が出現してくる様を目撃できるなんて、これほどエキサイティングな経験はなかなかありません。

私も含め、これまでどっぷりとお寺の一階の担い手であったお坊さんが、自らポスト宗教的な一歩を踏み出すために必要なのは、手放すことです。お寺の一階においては、これまで通り、死者供養の儀礼を担う僧侶として、主役を演じなければいけない部分もあるでしょう。しかし、二階に上がるときには、一階での振る舞いや意識をすっかり捨てて、まっさらな気持ちで臨んでみることが大事です。どうしても、一階での意識を引きずったまま二階へ上がってしまうと、「僧侶が信者を教化する」意識が出てしまい、二階の雰囲気が壊れてコミュニティ形成の妨げとなってしまいます。僧侶としての教化者意識、主役意識を捨て、お互いに学び合う仲間の集う風通しの良い場を作りたいですね。ポスト宗教の流れでは、「誰が誰に何を」布教するのか、「布教」という言葉の意味も変わってくるはずです。

 

ふつうのお寺、ただのお坊さんこそ、これから価値が高まる

再び魚川さんの言葉を借りるなら、自らの生き方を定める上で貴重な参照先となる『現代思想』のとしての仏教に、お坊さん自身がもっと自由に関わったら、どんなにこの仏教界も明るく楽しくなるでしょう。せっかくの仏縁、お坊さんたちももっと自由に楽しく自分の仏道を探求してみたらいいですよね。私は宗派仏教を否定しているわけではありません。たまたまお寺に生まれたことから受け継ぐことになった宗派の教えも、ひとつの尊いご縁です。しかし、そのご縁も、その世界しか知らないことによって、逆のその良さに気付けなかったりします。未来の住職塾ではいろいろな宗派の仲間と出会うことで、また自分の宗派の良さを改めて知るということがたくさん起こっています。お坊さん自身も、ポスト宗教感覚を持って視野を広げることで、より自分の原点の大切さを感じられるのではないでしょうか。

なんだかんだ、お寺の日常現場においては一階部分の先祖教を主として頑張っているお坊さんも、当然ながら仏教の基礎は学んできているわけです。手放さなければならない長年しみついてしまったクセもあるかもしれませんが、二階において発揮される知識や経験ももちろんたくさん持っています。壁を取っ払って、一歩踏み出してみれば、案外やれること、求められていることがたくさんあります。

未来の住職塾をやってきて、特に若い世代のお坊さんには、自分ではそうと意識していなくても、かなりポスト宗教的な感覚を持って自由に自分なりの仏道を歩んでいる人が増えているように感じます。そういう人たちは、同時に僧侶としてお寺の一階部分でやらねばならない仕事とのギャップに苦しんだりしています。私もそのあたり、整理がつかなくて、ずいぶん悶々としてきました。そんな中で、ふと思い浮かんだポスト宗教という視点から、自分を取り巻くお寺環境を見てみると、だいぶクリアになる気がして、勢いでこの記事にまとめてみた次第です。

ポスト宗教のパラダイムシフトにおいて、「お寺の二階」で求められるのは、立派な伽藍や宝物ではなく、仏道を求める人の風通しのよいコミュニティです。「何にもないのが良いところ」という町や村のふつうのお寺の場、「何も特別なことはできません」というただのお坊さんこそ、これからの価値の高まる余地があるというもの。パラダイムシフトは、既存の価値観が顛倒する世界です。縦割り型の宗派仏教から、コミュニティを大事にする地域仏教へ。有名本山や古刹名刹を中心とする中央集権型仏教から、町や村のふつうのお寺がゆるやかにつながる分散ネットワーク型仏教へ。一握りのカリスマ住職がもてはやされるマスメディア的仏教から、地域のふつうのお坊さんがゆるく活躍するローカルメディア的仏教へ。

南直哉さんが「鎌倉以来の仏教の変革期」という時代を私たちは生きてます。みんなでお寺の新しいエコシステムをどんなふうに創造していきましょうか。わくわくしますね!

松本紹圭

東京神谷町光明寺僧侶。未来の住職塾塾長。 「ちりを払わん、あかを除かん」一緒にお寺で朝の掃除から、一日を始めてみませんか?