Post-religionとこれからの日本仏教

前回の記事で、ポスト宗教(Post-religion)の話をしました。今回はその記事が前提となっているので、もし興味ある方はぜひお読みください(長いですが・・・)

要約すると、今どき組織としての宗教に入信したいと思う人は少ないけれど、自分の宗教的感性や霊性を大事にしつつ、仏教をはじめさまざまな宗教的な知恵にアクセスして、人生の苦から解放される考え方や方法論を見出そうとする人が世界的に増えており、その流れを既存の宗教内外の人々が受け止めていく必要があるのではないか、そのような宗教を取り巻くパラダイムシフトをポスト宗教(Post-religion)と名付けてみたい、という話でした。

今回は世界的なポスト宗教の流れの中で、日本仏教の現在とこれからをどう見るか、私なりに書いてみます。再び長文記事ですが、前回の記事に共感したり興味を持った方や、お坊さんは、ぜひどうぞ。

 

ポスト宗教における「宗教」とは何か

「宗教」という言葉はあまりにも広くたくさんの意味を含むので、ポスト宗教という流れにおいて、「宗教」とはなんなのか、ちょっと考えてみます。
宗教の顔をしたカルトビジネスは論外として、長い歴史の中で大勢の先人たちが参照とアップデートを積み重ねてきた叡智の集合としてのテキストと実践体系には、仏教系、キリスト教系、イスラム教系、神道系、他、それがいかなる系統の宗教文化に属しているものであれ、私たちが学ぶに価するものがそこにあります。古の聖地や宗教遺跡なども含めて、過去から受け継がれてきた宗教的アーカイブは、ポスト宗教の流れでは肯定的に評価され、敬われます。
しかし、その叡智がどんなに素晴らしいものであったとしても、人間の営みである以上、求める人の行列ができれば、それを我が物にしようとする人、そこで商売を始めようとする人が出てきます。そこに、神や仏の威を借るキツネによる権威生成のための抑圧装置としての宗教組織が生まれます。聖性や霊性に対する人々の素朴な祈りが組織化され、少数の権威者のエゴを満たすため、商業利用や政治利用されていきます。信者を組織につなぎとめ拡大する常套手段は、罪悪感や不安や恐怖を植え付けた上で、その解放の唯一の方法として信仰を示すことです。抑圧構造の中で無力感を育てられた被抑圧者は、抑圧を自分自身が望んだものとして肯定することで自意識を保とうとするため、自ら抜け出すことはできず、依存関係が完成します。
そのような抑圧は、多かれ少なかれあらゆる宗教組織に見られます。宗教組織に限らず、人間である限り避けることのできないカルマといっても良いかもしれません。あえて言えば、この抑圧がマイルドなのが伝統宗教で、極端に出たのがカルト宗教です。マイルドなキツネを選ぶか、カルトなキツネを選ぶか? もちろん、どちらも選ばないで済むなら、それに越したことはないでしょう。だからといって、「無宗教」を選択することもノーリスクではありません。なぜならば、抑圧は人間社会の隅々まで浸透していて、ほとんどの人がそれを自分の中にも無意識に内面化しているからです。
無宗教によって、自分のエゴというキツネによる抑圧で自縄自縛に陥っている人も大勢います。「俺には宗教なんて必要ない。そんなものは弱い奴が信じるものだ」という人ほど、自分自身がすごく縛られています。宗教ではなくても、たとえば科学教だったり、お金教だったり、多くの人が無意識の中で何かに縛られて、自分で自分の枠を作り、自家中毒的に生きている。なりたい自分になりたいけれど、なれない。常に欠乏感に襲われ、自分で自分を無意識に縛りつけている。そのことに無自覚な人ほど案外コロッと、何かのきっかけでカルトにはまってしまったりするものです。
最近のニュースで、元GoogleのエンジニアがAIを神とする新しい宗教を立ち上げたとありました。完成された絶対的超越者ではなく、「進化し続ける神」というのが新しいですが、構造はオールドファッションの宗教と変わりません。(Ex-Google executive Anthony Levandowski is founding a church where people worship an artificial intelligence god)「人間的な、あまりに人間的な」というニーチェの言葉がありましたが、どんなに時代が進んでも人間が人間である限り、不安や恐怖は生じますし、それに対応した宗教組織を作るキツネも生まれ続けます。
ポスト宗教の流れにある人は、宗教的価値を否定しているわけでは決してなくて、むしろそれを肯定的に評価し親しみたいと思っているからこそ、「地面に引きずり下ろされた組織としての宗教の弊害」に対する忌避感があり、それを「宗教」と呼ぶのでしょう。日本のお坊さんなどは宗派の縛りもそこまで厳しくないし、住職はそれぞれ一国一城の主として基本的には独立しているので、一人ひとりとお会いすると優しくて親しみやすい人が多いのですが、集団になると急に弊害が・・・というのは私がよく感じるところです。これがもっとヒエラルキーのはっきりした単一の宗教組織だったら、その組織文化がどんなに息苦しいものになるか、想像は付きます。
ときどき、お坊さんの中に、お寺や僧侶の時代に合わせた新しい取り組みに対して、「昨今の宗教の世俗化は由々しき問題である」と言う人がいますが、ポスト宗教の人からすれば、伝統仏教の教団宗教的あり方そのものが、より根本的な意味での宗教の世俗化です。伝統という名の元に、神や仏の威を借るキツネによる権威生成のための抑圧装置としての宗教を頑なに守ろうとする姿勢こそが、世俗化の極みと言えるんじゃないでしょうか。むしろ、そんな宗教の現状にうんざりした人たちが、瑞々しい感性で聖性や霊性を求め表現する運動として、ポスト宗教の流れが生まれているのだと思います。聖性や霊性の民主化運動と言ってもいいかもしれません。
もちろん、そのような新たな流れが生まれると、そこにもまたすぐにそれを自分のものにしようとするキツネが登場します。人間が人間である限り、カルト化の危険性が消えることはありません。ポスト宗教は、1970年代に盛りあがってきた個人的な自己変革を目標とするような「新霊性運動」に通じるところも大いにありますが、霊性を求めつつも、個人に閉じずに緩やかなつながりを持ちながら、なおかつ組織としての宗教に絡め取られないように距離を置くという、現代の社会状況を反映しているようにも思います。「シェア」や「共感」が重要となる世の中の流れが、宗教の領域にも流れ込んできているのでしょう。
「新霊性運動」のように、求めるベクトルだけを言葉にしてしまうと、気づいたらまたいつものようにどこからかキツネが紛れ込んできて、新しいカルト宗教を生み出しかねません。オウム真理教など、カルト宗教にまつわる問題を風化させないためにも、そういった「宗教」から距離を置きたという意識も含めて、言語化して流れを捉えていくことが大事だと思い、ポスト宗教と言っています。

 

 

仏教と仏道を分けて考えてみる

ブッダを祖師とする宗教を総合して仏教=ブッディズムと呼ばれていますが、ポスト宗教の文脈においては、あえて仏教(Buddhism)と、仏道(The path to Buddha)を分けて使ってみます。ブッダ(目覚めた人)にイズムはありませんから、「仏教」は、ブッダの威を借るキツネによる宗教組織を表す語として位置付けましょう。一方「仏道」は、ブッダを祖師として長い歴史の中で大勢の先人たちが参照とアップデートを積み重ねてきた叡智の集合としてのテキストと実践体系を表す語として位置付けてみます。
さらにややこしいことに、仏教の中でも日本仏教には、ブッダの教えとは関係のない、お葬式や墓など死者のための先祖教が大きく含まれます。言ってみれば、仏教という生者のための宗教に、先祖教という死者のための宗教を加えたものを、日本仏教と呼んでもいいかもしれません。象徴的には、お寺の檀家は自分の先祖のお墓には熱心にお参りしますが、本堂のご本尊にはお参りせず素通りする人も少なくありません。それはお墓参りに来ている方の素直な感情だと思います。つまり、死者のための先祖教としての役割のほうが、ニーズが大きいのです。死者を大事にする多くの日本人にとって、仏教よりも、先祖教のほうが大事なんですね。
それで言えば、私は宗教は日本仏教で、浄土真宗です。亡くなった父方の先祖も浄土真宗だったようですし、母方の実家は浄土真宗のお寺で祖父は住職をしていました。両親ともに長男や長女ではないので、家の宗教を継ぐことにそれほど大きな意味は感じていませんが、お葬式やお墓ということになれば、特に他を選ぶ理由も見つかりませんので、浄土真宗のお寺にお世話になると思います。こういうことに関しては、定番の選択で良いと思ってます。
私自身は、仏道を求めて、僧侶になりました。宗派にこだわりはありませんでしたが、実家も浄土真宗でしたし、縁あって浄土真宗本願寺派の僧侶になりました。僧侶になってみたら、日本仏教と仏教の違い、日本仏教の先祖教の関係、日本仏教と仏道が実は重ならないことが、だんだんわかってきました。「僧侶に手を合わせているんじゃない、お袈裟に手を合わせているんだ」と僧侶の世界ではよく言われますが、私もブッダの威を借るキツネの一人として、お葬式でお経を読んだり、法話をしたりしています。卑下しているわけではなくて、ただそういう役割だということです。
近年は少しずつ人々が日本仏教に先祖教よりも仏教の側面を強く求めはじめ、また、生き方として仏道に関心を持つ人が増えていますね。生活者の「家」への意識が大きく変わってきています。経済力など社会的な環境も関係します。例えばシングルマザーの貧困率は、日本はOECD諸国の中でも最も高い水準であり、先祖のことにお金をかける余裕はありません。今、代々の家を継いでいくとか、家の象徴として墓を大事にすることが成り立たなくなってきています。安心のよりどころではなく、負の遺産になりつつあります。
繰り返しますが、私は葬式仏教と呼ばれるような、日本仏教の存在意義や価値を否定しているわけではありません。それを否定するなら、7年も未来の住職塾をやってきたりはしません。大切な人を弔いたい気持ちや、苦しいときに救いを求めたい気持ちに対して、日本仏教が果たしていく役目はあるでしょう。でもそれは、従来と変わらないかたちで家を守りご先祖さまを供養することとは、必ずしも重なりません。日本仏教の宗教としてのアップデート、キツネの役目にも変化が必要なことは、それはそれとしてはっきりしています。

 

「水平方向」と「垂直方向」

哲学者のケン・ウィルバーが、宗教的なものには「水平方向」と「垂直方向」の二つの機能がある、と言っています。私の言葉でいうならば、仏教を含む宗教は水平方向、ポスト宗教は垂直方向です。

宗教が持つ「水平方向」の機能は、人間は誰しも物語が必要であり、その物語を支えるというものです。普通に生きていて、すごく充実していて、人間関係や仕事、家庭もうまくいっている。こうありたいと思う自分になれている状態は、理想ですよね。そんな状態にある人にとって、宗教など別に必要ありません。でも、人間ずっとそうはいかなくて、思いどおりにならないことに必ず直面します。人生には、自分がこうありたいという物語が破綻してしまうときが、必ず来ます。例えば大事な子供を亡くしてしまったら、なぜこんなことが自分の家族に起こるのかと、嘆き悲しむでしょう。そういう時、破綻した物語の穴を埋めて、癒してくれる役割が、宗教にはあります。

「家」というのは先祖代々続く大きな物語ですよね。世代を超えた長編物語です。自分はその長編物語の一編なんだ、ということで自分の存在を確かめる。そしてまた、これが続いていくだろうと思うことで、安心感を得られます。でも最近はその長編物語が破綻して、どんどん短編になってきています。経済的に、物理的に、先祖代々の墓を守っていくのはもう無理だ。お参りに行くこともできないし、自分の子どもたちにも負の遺産を残して迷惑をかけたくない。そんな意識が生まれ、永代供養など、一人または夫婦だけの短編で解決しようという感じになってきています。中には、散骨してもう物語を終わりにしよう、という人もあります。しかし、果たしてそのような物語のない人生に人間が耐えられるのかが、問われています。

もっとも、今までもお坊さんが何か主体的に水平方向の役割を果たしてきたかといえば、そうでもなかったのかもしれません。住職が特に積極的に何か働きかけなくても、ご先祖さまのお墓という装置が自動的に作動して、それぞれの家々が宗教的な営みを続けてきました。長編物語の時代は、お墓という装置がうまく作動して、宗教が自然と水平方向に機能していたわけです。しかし今、短編物語の時代に移行し、人々の死生観も一様ではなく、やせ細ってきています。いよいよお寺が受動的にではなく、水平方向の機能を主体的に果たす必要が出てきたのではないでしょうか。日本仏教には、先祖教だけでなく、仏教があります。これまでは地縁血縁をベースとした先祖教の役割が重要でしたが、これからは多様なコミュニティに力を与える仏教の役割が重要になっていくでしょう。

一方、ポスト宗教の「垂直方向」においては、今こそ仏道の出番です。ブッダの教えは、諸行無常、諸法無我です。どんなに「こんなふうになりたい」と物語を描いても、思い通りにならないのが人生であり、思い通りにしたいという思いが苦を生みます。私たちは物語が破綻したとき、また別の物語で埋め合わせをします。しかし、そういうふうにある物語から別の物語へと水平移動で乗り換えていくばかりでは、いつまでたっても苦から抜け出ることができない。そんな、際限のない水平移動はもううんざりだ。そのサイクルから抜け出して、夢から覚める垂直のジャンプはないだろうか、というのがポスト宗教的な流れだと思います。そして、ポスト宗教の感覚を持つ人たちに、仏道は大きな示唆を与えてくれるでしょう。

水平方向と垂直方向、どっちのほうが重要か比べることはできませんが、少なくとも大多数の物語に生きる人の人生にとっては、水平の機能だけで十分に事足りてしまうかもしれません。垂直の機能は発心というか、より深い気づきがないと行動へとつながらないので、そこを本気で求めてくる人はいつの時代も限られてしまいます。しかしこれからは、世界的に既存のシステムや物語が破綻していくので、どんどん物語で満足できない人が増えて、幻想から覚めたい人が増えていくのではないかと感じてます。

 

仏教徒は減るが、仏道を求める人は増える

「ポスト宗教」だなんて言うと、誤解されやすいですが、私は宗教の存在を否定しているわけではないし、それがこれから不要になると主張したいわけでもありません。主に国や家をきっかけとして継承されるような宗教は、今後もある程度求められますし、消えることはないでしょう。しかし現実に、宗教が求められる割合は少なくとも先進諸国では確実に減少しています。(最近では世界経済フォーラム These are the European countries where young people are least religious という記事が出ていました)

世界の統計予想では、今後、一番人口が増加する世界宗教は、イスラム教徒だと言われています。一方、仏教徒は減っていきます。仏教が世界的に注目されているというのに、どういうことか?

これはまず単純に、イスラム教国の人口増加が他の地域と比較して高いことがあります。国の宗教であり、家の宗教であり、つまり宗教としてのイスラム教が伸びるということです。では、それに対して仏教徒人口が減るから悲しむべきかというと、おそらくそうではありません。仏教を求める人が減ったとしても、仏道を求める人は先進国を中心に増えていくことでしょう。

社会が未だ安定せず、縛る=紐帯機能としての宗教が重要なステージにある国や地域においては、宗教が存在感を発揮します。政情が不安定で、自分や家族の生存が日々脅かされているような状態では、心の安寧を求めて坐禅や瞑想に行く前に、何かの強い共同体に属して安全・安心を確保しなければならないからです。

反対に、安定の先に行き詰まりを見せている先進国においては、ポスト宗教化が進む流れが確実に出ています。ベルリンで僧堂を開いているお坊さんの星覚と話していたら、実際ベルリンでも仏道を求める人が増えているようで、
「身の回りはPost-religionばかりですね」とのことでした。
生まれた家の宗教がキリスト教だったとしても、家の宗教は面倒だから教会には行かないけれど、仏道の思想や文化に共感して僧堂に坐禅をしに来る、そんな人が多いようです。

私がインドに留学していたときに驚いたのは、インドでは宗教としての古い仏教はずいぶん昔に消滅してしまっているにも関わらず(近年のネオ・ブッディズム運動はまた別として)、人口の多数を占めるヒンドゥー教徒の友人の中に「自分はブッダの教えにすごく共感していて、ブッダの教えの本をたくさん読むし、仏教式の瞑想もするんだ」とか「ブッダを尊敬しているから、息子にはシッダールタと名付けた」というような人がたくさんいたことです。宗教としてはヒンドゥー教でありながら、同時にポスト宗教的な感覚を持ちながら仏道を実践しているということです。

 

宗教とポスト宗教、二者択一ではない

もうひとつ大事な点として、私は宗教とポスト宗教とが相互に排他的なものだとは思っていません。宗教とポスト宗教は、両立します。

つまり、
「あなたは、宗教派か、ポスト宗教派か、どっちですか?」
という二者択一ではないんです。
自分は宗教を大事にしたいという人もいれば、自分は無宗教という人もいますが、いずれにしても、宗教の話は水平方向の話です。
一方、垂直方向に気づくか気づかないか、それを求めるか求めないかも、人によります。

日本仏教に関わる人の例で言うなら、
「お寺はご先祖さまの眠る場所。
和尚さんは葬儀とか法事とかお墓とか、
うちの先祖代々のご供養だけしっかりやってくれればそれでいい」
という人は、典型的な宗教、水平移動のみのタイプですね。

一方、
「私はお墓とかお葬式とかそういうことじゃなくて、
自分の人生のためにブッダの教えが知りたいんです」
という人は、ポスト宗教、垂直移動を求めるタイプです。

中には、
「私は先祖から受け継いだ宗教も大事にしたいから、
田舎の真言宗の菩提寺には毎年必ずお墓まいりをしています。
でも、自分は自分で最近、仏教の教えに興味が出てきたので、
近所の曹洞宗のお寺で坐禅会に参加しています」
というような、宗教も大事にしつつ、ポスト宗教的な感覚を併せ持つ人もあります。

もちろん、水平にも垂直にも関心のない人も中にはいます。

私が言いたいのは、長い時間をかけてお互いに作り上げてきたお寺と檀家の関係を、いきなり手放そうとか、壊してしまおうということではありません。宗教としての日本仏教、お墓とか法事とか葬儀とか葬式仏教的な面がゼロになるわけじゃなくて、これからも変わらず家の宗教として大事にする人たちはたくさんいるでしょう。求めがあるから続いてきたわけですし、求められている限り、その求めに応じることは大切です。先祖教という宗教としての役割も、日本仏教が社会において果たしてきた重要な役割だからです。

しかし、日本仏教の先祖教よりも仏教の側面を求める人が増えているなら、今こそ日本仏教の仏教としての側面をアップデートしていかなければ、「かつて日本仏教という名の先祖教が日本にはあったらしい」ということで、生きた宗教としての日本仏教は消えていくことになります。僧侶は宗教者として、日本仏教が宗教として今後も役割を果たせるかどうか、力を合わせた変革が求められていると言えます。

そしてもうひとつ、ブッダを祖師として長い歴史の中で大勢の先人たちが参照とアップデートを積み重ねてきた叡智の集合としてのテキストと実践体系である仏道には、いわゆる宗教の枠組みにおける資格を持った宗教者であるか否かは意味を持ちません。具体的には、日本仏教の各宗派の本山から正式に認められた僧侶としての免許を持っているかどうかは、世俗の事柄であり、仏道においては何の意味も持たないということです。仏道は、ただの人として歩む以外にありません。

長い長い歴史を経て、宗教、仏教、僧侶といった言葉がずいぶんこんがらがってしまったものが、このブログで少しでも解ければと思います。いや、余計にこんがらがったかもしませんけど・・・!

懲りずにまた、ほどいていきます。

松本紹圭

東京神谷町光明寺僧侶。未来の住職塾塾長。 「ちりを払わん、あかを除かん」一緒にお寺で朝の掃除から、一日を始めてみませんか?