モヤモヤからはじまること

松本紹圭による「ひじりでいこう」が始まり、お坊さんのSNSではいろいろな意見が見られました。私自身もこの「彼岸寺」に掲載しながら、「なるほど……」と納得しながら読んでみたり、「うーん……」と悩まされてみたり、モヤモヤとした感覚を覚えています。そんな方も、ひょっとしたらおられるのではないでしょうか。

そして時を同じくして、以前彼岸寺でいろんなお坊さんにインタビューをしてくださった小出遥子さんのブログ『Temple』で書かれていた〈「社会」を断捨離!〉という文章も読み、それにもまた同様に「なるほど」と「うーん」の両方を感じるというモヤモヤを体験し、これはひょっとすると同じようなところに原因があるのではないだろうかと感じました。

ですので、今回はそれらの2つから感じたモヤモヤについて書いてみたいと思います。

社会と私と仏教と

まずは小出さんの〈「社会」を断捨離!〉について。この文章のどこに私がモヤモヤを感じたかと言えば、やはり冒頭にある部分でしょうか。

最近、私、人生最大の断捨離を経験しました。なにを捨てたのか? 「社会」です!(笑) 私、意識の中で「社会」を捨てました。より正確に言うのなら、「社会に合わせなきゃ!」という強迫観念を捨てました。いまはかなりふてぶてしく「社会が私に合わせろや」と思っています(笑)。 最低? でも、楽よ。

 

「社会」に合わせなきゃ生きていけない、なんて大嘘ですよ。むしろ、「社会」に合わせようとして「私」に無理をさせると、その分いのちを縮めます。私はなにより健やかでいたいので、「私」に無理をさせるような「社会」を断捨離しました。

いろんな風に解釈ができる言葉であるなと思うのですが、まず感じたのは、これはすごいことを言っているな、ということ。自分の中にある「社会」を捨てる。社会にありながら、社会に合わせなければということを捨てる。小出さんを知っている人間からすれば「小出さんらしいなあ」というのが最初の感想でした。

しかし次に思ったのは、「私にはそれができるのだろうか?」ということでした。家庭を持ち、息子二人は保育園に通っています。この保育園に通うのには行政からの補助もありますし、他にも医療費が無料になったりという制度もあるなど、しっかりと社会の仕組みの中にあります。またお寺を取り巻く地域や、地元での活動もまた「社会」という言葉で表現されるものでしょう。僧侶としても、浄土真宗本願寺派というグループに所属し、私の僧侶としての活動もまた、組織の仕組み、一つの「社会」の中で行われています。

そのようなところから、果たして私は離れることができるのだろうか。それが小出さんの文章から生じた疑問でした。そしてその疑問への答えはすぐに「できない」とはじき出されました。私は社会の中にあって、社会の中にどっぷりと生きている一人の人間に過ぎません。たまたま〈僧侶〉という役割を担ってはいますが、それは社会の枠組みに包摂されるものです。小出さんのように私の中から「社会」を捨てるということができるかと言えば、私にはそれだけのことを言える勇気はありません。

また、私はさまざまな関係の中にあって私たり得るわけですし、いろいろな人との関わり、つまりは「縁」の中で初めて私の役割ということも浮き上がってくるものです。その中には、「怨憎会苦」の教えのように、「切り離せたら楽だろうなあ」と思うような関係性というものも、もちろんあります。しかし、それもまた一つの「縁」となり得るものですから、自分に都合が悪いからといって、それだけを切り離すということができるわけでもありません。そういう意味では、やはり自分と社会を切り離して生きていくということは、簡単にできることではないというのが、私自身のあり方です。

社会から離れたら、楽。「わかる」と思いつつ、そうできない弱さを抱えているのが、私なのです。

垂直に飛べない私

さてもう一方の松本の文章「Post-religionとこれからの日本仏教」にはこんなことが書かれていました。

哲学者のケン・ウィルバーが、宗教的なものには「水平方向」と「垂直方向」の二つの機能がある、と言っています。私の言葉でいうならば、仏教を含む宗教は水平方向、ポスト宗教は垂直方向です。

(中略)

一方、ポスト宗教の「垂直方向」においては、今こそ仏道の出番です。ブッダの教えは、諸行無常、諸法無我です。どんなに「こんなふうになりたい」と物語を描いても、思い通りにならないのが人生であり、思い通りにしたいという思いが苦を生みます。私たちは物語が破綻したとき、また別の物語で埋め合わせをします。しかし、そういうふうにある物語から別の物語へと水平移動で乗り換えていくばかりでは、いつまでたっても苦から抜け出ることができない。そんな、際限のない水平移動はもううんざりだ。そのサイクルから抜け出して、夢から覚める垂直のジャンプはないだろうか、というのがポスト宗教的な流れだと思います。そして、ポスト宗教の感覚を持つ人たちに、仏道は大きな示唆を与えてくれるでしょう。

この部分でなく、この前後(中略部分も含め)をぜひお読みいただきたいのですが、こちらも「なるほど」と一旦は納得しながら読みました。禅の体験やマインドフルネスが好まれるのも、このような流れの中にあることでしょうし、実際に「夢から覚める垂直のジャンプ」をしたいと思っている人もおられるのでしょう。

しかし、やはり引っかかるのは「自分にできるのだろうか」ということ。夢から覚める垂直ジャンプをすれば、私は苦のサイクルから離れることができます。もちろん、そのジャンプはとても高く飛ばなければならないもので、達するべきところ(=さとり)に到達することはかなり難しいことです。それ以前に、自分自身が果たして本当に「垂直ジャンプをしたい」と思っているかさえ怪しいのです。幻想の中に生きていたい。心の何処かでそう思って生きているのが私なのです。

松本はこの文章のあとで、このことは水平/垂直の、単純な二者択一ではなく両立するものと述べています。また必ずしも垂直方向へと向かうものだけが素晴らしいものであるということを言っているわけでもありません。ですから、このような疑問を持つ必要はないのかもしれませんが、しかし、必ずしもこの垂直ジャンプの仏教を求める必要もないのではないか、そんなことを私自身は感じています。

私のスタートライン

このように、まったく別の事柄について書かれた文章ですが、ここまで読んでいただけると、私がどこにモヤモヤを感じたのか、少しご理解いただけるのではないでしょうか。それは「自分にできるかどうか」ということが鍵になっています。

「自分にできるかどうか」は、自分のさじ加減で、できないのは私の努力不足と言われるかもしれません。チャレンジもしないで最初から諦めてしまうことも、臆病で、意識の低いことだと言われるかもしれません。そう、そうなのです。私の現在地は、どこをどうしたって、怠惰で、臆病で、意識の低いところにあるのです。ここが私のスタートラインなのです。

どれだけネガティブなのか、と思われるかもしれません。それは、きっと私が浄土真宗の教えを聞いているというのが、大きく影響しています。

浄土真宗のことに入る前に、少し仏教のスタートラインを確認しておきましょう。それは「私は苦の存在である」というところあります。「苦諦:くたい」という言葉で表されますが、そのスタートラインに立たなければ、仏道は始まりません。そこから、「その苦の原因は私(の煩悩)にある」と原因をあきらかにし(集諦:じったい)、「煩悩を離れるべく正しい行いをすれば」(道諦:どうたい)、「苦を解決することができる」(滅諦:めったい)とゴールまでを見定めていくのです。

では浄土真宗はどうなのか。もちろん「私は苦の存在である」ということがはじまりであることは変わりません。しかしそこからさらに、今の私には自分の力で煩悩を離れ、苦悩を解決することができない、というところに身を置きます。スタートラインには立っても、そこには濃い霧が立ち込めて、ゴールまでが全く見えないところが、実は自分の立ち位置だった。そんな大いなる絶望に出会ったのが、親鸞聖人という方でした。

親鸞聖人の言葉を見ると、そんな自分自身の存在を次のような言葉で表現されています。

正法の時期とおもへども 底下の凡愚となれる身は
清浄真実(しょうじょうしんじつ)のこころなし 発菩提心いかがせん
『正像末和讃』

もし正法の時期(お釈迦さまの正しい仏法が行われていたとされる時期)であっても、心の弱く劣った凡夫と言われるような身(=私)には、清らかなる心や、真実の心というものはありえない。菩提心=仏と成ろうとする心すら、起こせるかどうかわからない存在なのだ。

 

悪性さらにやめがたし こころは蛇蠍(じゃかつ)のごとくなり
修善も雑毒なるゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる
『正像末和讃』

自分自身の悪性・煩悩を断ち切ることはとてもできない。なぜならば、私の心はまるで蛇やサソリのようなものだからである。善を修めようとしても、そこには自己中心的な煩悩の毒が混じったものであり、どれだけやっても虚しいものでしかない。

少し超訳してみましたが、仏道のスタートラインにさえ立てないのではないか、いくら正しい行いをしようともそれは本当に正しい行いとなっているのだろうか。このように、自分自身の在り方を厳しく見ておられます。また、自分自身のことだけでなく、当時を生きた人々をこのように表現しています。

りょうし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶて(礫)のごとくなるわれらなり。『唯信鈔文意』

我々は、石や瓦礫のようなつまらない存在である、と。そこには仏と成れるような光り輝くものなどは何一つない。それが、当時「末法」と呼ばれた時代の一つの人間観でした。特に獣を殺し、さばいて生活の糧にした猟師や、ものを売り買いして商う人は、「屠沽(とこ)の下類」とまで呼ばれ差別され、とても仏教の光の当たるような人たちではありませんでした。

そしてここに描かれる人たちは、親鸞聖人の時代の人々のことだけではありません。彼らは、実は今を生きる私たちとなんらかわらない在り方をしています。日々、家族や自分を養うために汗を流し働く、そんな人たちです。まさに社会の中にあって、社会と共にある「人間」の姿です。日々の生活に追われるばかりで、全ての苦悩を離れ、あらゆるいのちを救うような仏と成りたいという心(=菩提心)を起こすどころではありません。つまり、スタートラインに立つ以前の人もいるということです。そしてそれは、仏教に出会いながらも、自らすすんで「よし!仏と成ろう!」と、いわば垂直ジャンプをしようとせずに、幻想の中に生きようとしている意識の低い、私の姿でもあるのです。

しかしそんなスタートラインに立とうとさえしない私に光を当ててくれるはたらきがあります。それが、阿弥陀仏という仏さまです。阿弥陀仏という仏さまは、石や瓦礫のような私を、黄金に変えてくれるようなはたらきをしてくださる。上に挙げた『唯信鈔文意』の言葉には、そんなことが続いて示されています。浄土真宗の教え、念仏の教えというのは、そのような、社会から離れる覚悟もなく、仏と成りたいという、ある意味では究極に高い意識を持たず、スタートラインにさえ立つことを躊躇するような、弱い私のためにある教えなのです。

もちろん、これを読んで、自分はそんな弱い人間でも、意識の低い人間でもない、と感じられる方もおられることでしょう。仏教を学び、自分も仏道を歩み、そしてストレスをうまくコントロールようになって、成功や自己実現を成し遂げていきたい。そして松本が言うような、自分も垂直ジャンプをしたいと思う方も、これからはきっと増えていくことでしょう。あるいはさらに小出さんが言うように、自分の中にある「社会」を捨てたい、と感じる方もおられるかもしれません。それはもちろん大切なことですし、そのような気持ちを私は否定するつもりはありません。人はそれぞれに能力に違いがあるものですし、「大道無門」という禅の言葉があるように、仏道に門はなく、それぞれの立つ場所がそのままスタートラインになるわけですから、一歩を踏み出すことは、とても大事なことです。

しかし、必ずそうしなければならないというわけでもありません。「彼岸寺とは」というところでも書きましたが、仏教とのご縁、「仏縁」というものはとても不思議なものです。人それぞれ、いろんな出来事が「仏縁」となる可能性を秘めています。ですから、垂直ジャンプができなくても、社会の中でしか生きられなくても、何気なく仏教に少しずつ触れる中に、ジワジワと変わっていくような、気づけばそこは仏道であったというような、そんな在り方もあっていいのではないでしょうか。それは釈徹宗さんの言葉を借りるなら、「螺旋状に深まる」というような、そんなゆっくりとした歩みです。そして、私の苦悩とともにある人生の歩みが、いつの間にか、仏と成らせていただける歩みに変えられていく。私は、浄土真宗の教えからそのように聞かせていただいております。

仏教は脱構築の教え

とは言え、小出さんや松本が言うことが間違いだとか、批判をしたいわけでもありません。ましてや私の言うことが正しいとか、浄土真宗こそが正しいとか、そのようなことが言いたいわけでもありません。

小出さんのおっしゃる「社会」という言葉はとても意味が広い言葉です。ですから、単純に想像するような「社会」という意味ではなく、自分が作り上げてしまっている社会だと思っているものから離れよう、自分の思い込みが作り上げてしまっているしがらみから離れよう、そんなことをおっしゃっておられるのかもしれません。

そのあたりを小出さんにお伺いしてみたところ、「社会」が自分を苦しめているのではなく、社会を頭の中で大きくしてしまう自分の意識が自分を苦しめている。だから社会を断捨離というよりは、自分の中の不要な思い込みを断捨離しよう、というのが真意だったそうです。このように小出さんの言葉は、私たちが普段思いもしないことや、「こうに違いない」、「こうあるべきという」ような、自ら作り上げてしまってガチガチに凝り固まってしまっている枠組みを解きほぐすようなはたらきを持っていると私は感じています。

そして松本の「Post-religion」ということも、同じように枠組みを解きほぐすことの大切さを教えてくれています。宗教というものが枠組み化していきがちなもので、大きな組織となっている日本の仏教もまた、その枠組みでガチガチになっています。本来ならば私たちの価値観という枠組みを揺さぶって解体させる役割を持つ宗教自身が、枠組みとなって凝り固まってしまうというのはなんとも言えない皮肉なことですが、それをさらに揺さぶっていこう、解体させていこうというのが、「Post-religion」という動きなのではないでしょうか。

私自身も、浄土真宗本願寺派という宗派の枠組みの中にあります。あるいは浄土真宗の教えという枠組みであったり、あるいはお寺を取り巻くさまざまな枠組み(門徒であるとか、そうでないとか)などに、知らず知らずのうちに凝り固まりがちです。今回二人の文章を読んでモヤモヤしたというのも、自分が知らず知らず築き上げていた枠組みが、大きく揺さぶられたからに他なりません。

釈徹宗さんはこのような私たちの枠組みに揺さぶりをかけるはたらきを「脱構築」という言葉で表現されています。仏教は常に私の価値観を揺り動かし、そして「お前の体験・考えは本当に正しいのか?」と説い続けてくれるものです。私たちは自分の中に作り上げた正しさをついつい依り所としてしまいがちですが、それらを常に打ち破ろうとしてくれるのが、仏教の妙味です。仏教に触れる、仏教に学ぶということは、常にモヤモヤと隣り合わせ、モヤモヤするところからはじまるのかもしれません。

そして釈さんは、仏教はその宗教としての枠組みをも揺さぶるはたらきをはじめから内蔵した「脱構築装置内蔵宗教」ともおっしゃっておられます。そう考えますと、小出さんの言葉も、松本の「Post-religion」も、まさに仏教の中から現れた一つの「脱構築」のはたらきと言えるのではないでしょうか。私の価値観を揺さぶり、宗教としての仏教の在り方をも揺さぶる。小出さんも松本もきっと仏教に学ぶ中で様々なモヤモヤを感じ、そしてそれを打ち破るべく、言葉として表現されておられるのでしょう。私はその意味で、二人の言葉はとても有意義なものであるとも感じています。

長々と書いてしまいましたが、「モヤモヤのポイントはそこじゃない!」「余計にモヤモヤした」など、ツッコミを入れた方もおられるかもしれません。感じること・考えることはそれぞれの立場によっていろいろあることでしょう。ですから、モヤモヤを感じた方は、自分はどうして、どんなところにモヤモヤを感じたのか、これを一つの考えるきっかけにしていっていただけたら幸いです。

小出さんの軽やかでしなやかな考え方、そして松本のこれからを見据える視座に今後も期待をしつつ、私の駄文を閉じたいと思います。

日下 賢裕

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。