[転載]念仏をとなえた・・・しかしなにもおこらなかった!!

学校の社会の授業で習う浄土真宗は「念仏すれば浄土に行ける。念仏すれば救われる。」という言い方で説明をされます。

確かに文言としては間違ってはいないんですが、これだけ聞いても意味がわかりませんよね。

これだと念仏を呪文とかおまじないのようなものに思ってしまいそうです。

言うなれば、「メラッ!」って唱えたら火が出るとか、「ルーラっ!」って唱えたらアリアハンに帰れる(ドラゴンクエスト3より)みたいに、「南無阿弥陀仏と念仏をしたら、何か不思議な力で浄土に行く。」みたいな。

念仏すれば救われるというのはそういうことじゃないんですよ。

今日はお念仏のお話。

念仏は呪文じゃない

念仏をするというのは「これをしたらこうなる」というように条件を満たす→何か結果がでる、という受け取り方では意味が分からないんですよね。

もし念仏が呪文となって「南無阿弥陀仏!」っていえば浄土に行ける、だったとしたらいろんな疑問がでてきますよね?

「1回言えばいいのか?たくさん言えばいいのか?」とか「大きな声で言えばいいのか?頭の中で思うだけでもいいのか?」とかいろんな問題がでてきます。

▼そして、実際に「南無阿弥陀仏」って口にだしてみても「念仏を唱えた・・・しかしなにもおこらなかった!」となりますよね。

お坊さんは念仏が大事ですよって言い方をよくしますが、上のように呪文のように考えていたら「何も起こらんし、何が大事なの?」って思って当然だと思います。

まったくピンときませんよね。

ですので少し言い方を変えたいと思います。

念仏が大事ですよというのは、念仏を意識した生活をしなさいよ。

ということなんですね。

「念」というのはどういうことかというと「常に意識の中にもっている」ということ。

つまり「仏の願い、浄土、如来という無量のはたらき」・・・・なんていうと難しいのでやめます。

すべての人が尊重されて、それぞれがフルパワーを出してもお互いの邪魔をしない世界、足をひっぱったり傷つけあったりしない世界、という平等な浄土の世界観が生活の中で常に頭の中に意識されている生き方をしましょうね、ということです。

浄土という無量の世界を頭において

なぜ無量の世界という世界を大事にしないといけないかというと、我々の世界は無量(はかることができない)ではなく、全て「量のある世界」だからです。

「量がある」ということで、どんな心が人間にうまれてくるのかというと、それは「比較の心」です。

金額が多いか少ないか、ごはんが多いか少ないか、なんでも数量化して比較して、それに一喜一憂振り回されるのが社会での生活です。

人間のあり方についても、美しいか美しくないか、力が強いか弱いか、走るのが速いか遅いか、常に比較しまくっています。

ここで誤解がないように申し上げたいことは、それぞれの技術や能力、経験に差があるということは事実ですし、仕事の上で価値が違うということはもちろんその通りだと思います。

しかし、そのことが人間のいのちの値打ちを決めるものではないということを申し上げたいわけです。

例えば、障害をもって歩けない人と100mを10秒で走れる人を比べた時に、10秒で走れる人のいのちは価値があって、100mも歩けない人のいのちには価値がない、なんてことは言えないですよね。

比較の心からは、いのちが尊重される世界観やものの見方、そういうものが生まれてこないんです。

我々は自分の価値を考える時に、他の人との「違い」ということを強調し、相対的に自分を際立たせるしか自分の存在を示すことができません

比較の心で人を見て、自分が人より上だと思ったら「慢心」を生み、人より下だと思ったら「嫉妬」を生みます。

そうやって、人と比べることでしか自分のいのちが認められない世界は苦しいわけです。

ですから、その比較の心からはなれた世界観、そういうものを「生き方のビジョン」として持つことが重要ですよということが言われているのです。

念仏は「生き方のビジョン」を思い起こさせる。

なぜ念仏をしましょうということが言われるかというと、人間はこの大事な事をすぐに「忘れる」から何回も思い出させないといけないんです。

忘れてるつもりはなくても、気分によって大事に思ったり思わなかったり、日によって振れてしまいます。

この不安定な人間に対して、現代風にいうと「生き方のビジョン」となるもの、無量の世界という世界観に折に触れて立ち返らせるはたらきが「念仏」にはあるわけです。

日々の生活をしていたらついつい仕事や目の前の用事を処理することで手いっぱいになってしまって、自分の身を振り返る時間がもてません。

朝に晩に仏壇の前で手を合わせて念仏するということは、浄土という世界観に向かいあって大事な事を思い出させるポイントを作りましょうということです。

お念仏をすることで、比較の心にとらわれて生きるのではなく、私が私の人生をまっとうできる大きな視点とビジョンをもって生きるいうところに立ち戻ることができるわけです。

家の中に浄土を感じる場所が仏壇だ。

浄土真宗の御門徒さんは家の中にお仏壇がある=浄土という世界観を感じる場所が家の中にあるということが重要なことだ思っています。

なぜなら特別な場所に行って、特別な祈願や祈祷をした人でないと大事な事がわからないんだったら、ほとんどの人は教えにであう事ができません。

普通の生活の中に念仏をする時間と場所あり、大事な教え「生き方のビジョン」を振り返りながら、何も特別な時間ではない日常を生きるというところが大事なんだと思うのです。

呪文として「南無阿弥陀仏と言えばなにか良いことが起こる」ということではありません。

念仏を通して浄土という世界観を生き方の大事な軸として持ちながら、気分や状況によってころころ変わる人生観を振り返りながら生きるところに、新たな世界の見え方がでてくるということが浄土真宗の「念仏すれば救われる。」ということだと思うのです。

へんもぶろぐ内「念仏をとなえた・・・しかしなにもおこらなかった!!」より転載。

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真宗興正派 善照寺第21代目住職。 法務を勤める傍ら、フットバッグというスポーツで日本一をとった経験からステージパフォーマンスに出演することも。 現在は自身の運営する月間15万pvの「へんもぶろぐ」の執筆にも力をいれておりブロガーとしても活動中。