可視化

3歳の長男が大好きな番組があります。それはEテレで放送されている「ピタゴラスイッチ」。特に好きなのがピタゴラ装置で、いつも目を輝かせてテレビを見ています。自分でもプラレールの線路にビー玉を転がして、ピタゴラ装置らしきものを作って遊ぶほど、お気に入りです。

そんな「ピタゴラスイッチ」。大人が見ていても面白いのですが、年始の時期に「大人のピタゴラスイッチ」という特別版が昨年、今年と放送されました。特に昨年の「可視化」をテーマにしたものは個人的にとても面白く、普段私たちが見たり感じたりすることができないものを、いろんな「手立て」を用いて、見たり感じたりできるようにするという「可視化」の試みは、どれも「うーん、なるほど」と唸らされました。

例えばしいたけ。菌床から生えるしいたけは、刻一刻と成長をしているそうですが、その成長は微かであるため、私たちの目には成長している様子を見ることができません。そこで、しいたけの成長を目に見える形にするため、「拡大」という手法を用いて、しいたけの成長を「可視化」していきます。最終的にはかなり大掛かりな装置によって、確かにしいたけは、刻一刻と大きくなっている様子が見て取れるようになります。他にも人間の耳には聞こえない犬笛の音を聞こえるようにしたりと、「可視化」というのは、人間の感覚の範囲外のものを、人間の感覚の範囲内に変換する作業のことだと紹介されました。

そんな番組を見ていて知らされたのは、私たちが見たり聞いたり感じたりしているものというのは、実はごく限られている、ということ。私たちの目に見えるのは可視光線と呼ばれる範囲の光だけですし、大きさも、小さすぎれば見えませんし、地球のように大きすぎると全体像を見ることができません。音もまた、聞こえる範囲というものがあります。あるいは空気の存在や、引力の存在など、何かあるということは漠然と感じることはできるものの、意識にひっかからないものなども、見えない・感じないものと言えるかもしれません。そう考えていくと、私たちが普段見たり聞いたり感じたりしているものは、世界の全てなどでは決して無く、実は見えないもの・感じられないものが、世界にはもっと満ち溢れているのかもしれません。

そんなことに思いを巡らせていると、ふと、阿弥陀仏という仏さまのことが頭に浮かびました。阿弥陀仏、という仏さまの慈悲のはたらきは、常に私を照らしている、と親鸞聖人はおっしゃられます。しかし、私にその阿弥陀仏という仏さまの姿や、照らしているであろう光、あるいははたたらきを、目で見たり、この身で感じたりすることはできません。しかしながら、「南無阿弥陀仏」という六字の名号(みょうごう)を称えること、つまり念仏するということが、阿弥陀仏という仏さまのはたらきが届いているということであり、「南無阿弥陀仏」という形によって初めて、阿弥陀仏という目に見えない仏さまのはたらきを、音として、言葉として、口と耳で感じられるようになる。つまり、「南無阿弥陀仏」という六字は、私の感覚の範囲外にある阿弥陀仏が、私の感覚の範囲内に自ら変換された姿、「可視化」された姿であったのかもしれない。そんなことにも、思い至りました。

あるいは、阿弥陀仏という仏さまに私が救われていくということさえも、人間に理解できる物語という形に「可視化」されたものと言うことができるかもしれません。本来の如来の姿というのは、「いろもなしかたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」と言われるように、私達には感得できない相であり、一如とか、真理という漠然とした言葉を使ってしか言い表せないものです。その感じることができない真理そのものが、阿弥陀仏と成って、「南無阿弥陀仏」と私に届く。そこには、間違いなくこの私が感じ取ることができるようにという、壮大な「可視化」の過程があったということです。そんなことを考えると、とても不思議で、でも「南無阿弥陀仏」という言葉が私のところに届いていることは事実で、それそのものが、慈悲のはたらきであるとしか言いようがない、そんなことを思わずにはおれませんでした。

「可視化」というテーマによって、目に見えないもの、感じられないものにも目を向けることの大切さを教わったような気がいたします。

日下 賢裕

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。