「わかりやすい」に気をつけろ!

先日調べ物をすべくネット上をウロウロしている時、ふと、見慣れない言葉を見つけました。その言葉とは「処理流暢性」というもの。これは私たちの認識の癖のようなもので、脳が処理しやすい(流暢性が高い)ものを信じやすい、という傾向で、認知バイアスの一つなのだそうです。脳が処理しやすい、というのは、一言で言えば「わかりやすい」ということなのだそうですが、そんなことが本当にありえるのか、詳しいことはこちらにまとめられていましたので、ご一読ください。

さて、この「処理流暢性」というもの、皆さんはどんな風に感じられたでしょうか。「あー、確かにあるある」と思った方もおられれば、「いや、そんなことはない、私はわかりやすさに流されず、きちんと情報を判断して認知している」と思った方もおられるかもしれません。私は前者の方で、情報が真実であるかどうか判断する前に、わかりやすい情報に流されやすい傾向があるなあ、と思い当たる節があります。

しかしこのことをよくよく考えてみると、私たちが認知する際には、それが真実であるかどうかよりも、自分にとって「わかりやすい」かどうかがまず判断の基準となっているということです。言い換えるならば、自分にとっての好き嫌いや、快・不快が、第一の価値判断の基準となっているということ。そしてその好・悪や快・不快によって信じても良い、と判断されたものを、今度は「正しい」もの、と私たちは判断します。その情報が正しいかどうかではなく、好・悪や快・不快によって、自分にとっての「正しい」が決められていく。

そして一度「正しい」と自分の中で決定してしまったことは、なかなか覆ることがありません。人から「それは違うのでは?」と指摘されても、自分にとって「わかりにくい」ものであったり、不快感を覚えるようなことは、なかなか受容できません。あるいは、自分の中で「正しい」と決まったことは、絶対的に正しいとさえ考えがちで、それこそが世のため人のためになるのだとおもうことさえあります。そしてその自分の中の「正しい」ことを人に押し付けたりしてしまったり、違った価値観を持った人を「あの人はわかってない」と拒絶してしまったりしてしまいます。これはかなり危うい姿ですが、まさに私の姿そのものです。

このような「処理流暢性」というもののことを知ってか知らずか、仏教は、私に「ちょっと待てよ」とブレーキをかけてくれます。例えば『カーラーマ経』というお経には、いろんな教えがあって、どれが正しくて正しくないのか判断に悩む人に、10項目の信じてはいけないケースが説かれます。その10項目はおおよそこのようなものです。

1)人々の間で言われているからといって信じてはいけない。
2)古くから言い継がれているもの(伝承・伝統)だからといって信じてはいけない。
3)評判の良いもの、流行のものだからといって信じてはいけない。
4)書物に書かれてあるからといって信じてはいけない。
5)経験に依らないもの(理論・憶測)を信じてはいけない。
6)理屈や理論として正しそうなものであっても信じてはいけない。
7)常識(一般的に正しい)とされるものであっても信じてはいけない。
8)自分の考えに合うからといって信じてはいけない
9)話者の身なりや話ぶり、肩書を根拠に信じてはいけない。
10)自分の師であるからといって信じてはいけない。

以上の10項目です。これらを全て満たす、ということはとても難しいことですが、お釈迦さまがおっしゃりたいのは、「わかりやすい」からといってすぐに正しいものとしてはいけない、ということでしょう。私たちは流行や伝統、権威や常識、そして自分の都合に合うか否かという「わかりやすさ」によってすぐにそれを鵜呑みにしてしまう傾向にあることを、お釈迦さまはよくよくご存知だった、ということです。

そしてそのような有様こそが「凡夫」と呼ばれる私の姿であった、とご自身を厳しく見つめられたのが、親鸞聖人という方です。煩悩という自己中心的な思いを中心にして物事を捉える身であれば、善と悪とさえも正しく判断することができない。それどころか、自分には何一つ真実性などなかった。そこまで厳しく自分の「愚かさ」に向き合われました。

いろんな情報が氾濫し、何が本当で、正しいものかを判断することがとても難しい中で生きる私たち。ついつい「わかりやすい」ものや自分の都合に合わせて情報を取捨選択し、それを「正しいもの」として振りかざしがちですが、自分自身が抱えている「正しさ」は本当に正しいものであるのか、常に振り返る眼差しを忘れないようにしたいものですね。

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。