月とお盆

暑い日が続いておりますね。そのせいなのかどうかわかりませんが、今年の夏は体調を崩しがちな私……皆さまもどうぞお身体ご自愛下さいませ。

さて、最近『大般涅槃経』というお経の中に、「月の喩え」と呼ばれるたとえ話に出会いました。このお経は、お釈迦様入滅前の最後の教えとされるお経で、お釈迦様の遺言とも言えるお経です。この「月の喩え」も、お弟子に残された、まさに遺言という喩え話となっています。どのような喩えか、ざっくりとご紹介しましょう。

月は、沈んだり現れたりするものとして見られているけれど、本当は月は常に空にあり続け、現れたり没したりするものではない。それと同じように、ブッダもまた、生まれたり亡くなったりするように見えるけれど、本来ブッダは生滅をするような存在ではない。ただ人々に生じたものは必ず滅すること教えるために、涅槃に入るのである。

そして月は満ちたり欠けたりするように見えるけれど、実は満ち欠けしているわけでなく、常に丸い形をしている。私(釈尊)も人として生まれ、成長し、そして真実に目覚めブッダとなり、今まさに涅槃に入ろうとしている様は、月が満ち欠けしているようである。しかし実はブッダは満ち欠けしているわけでなく、常にブッダとして在る。ただ人々が見るところによって、満ち欠けしているように見えるだけである。

また月は町や村、山や谷、井戸や池、かめの中などにも現れる。そして人が行くところどこにでも月を見ることができる。しかしどこで見える月も同じ月である。また人の見方によって、月の大小が異なる見え方をするけれども、月そのものの大きさは一様である。ブッダもそれと同じように、世間の人々の在り方に従って現れ、至る所にその姿を表わす。私(釈尊)もその一つに過ぎないけれど、ブッダそのものは、月のように常に在り続け、変わることがないものである。

と、このような喩え話です。出没と満ち欠けを繰り返すように見える月だけれども、実は満月が常に宇宙に在り続けることに喩えて、釈尊は人として生まれ死にゆくけれど、ブッダという存在自体は不変・普遍のものであるということをお弟子に伝えておられるのでしょう。ここでいうブッダというのは、肉体などの形を伴わない、仏の本質、教えそのものとして理解すると良いかもしれません。つまり、釈尊亡き後、月は消えてしまったように見えるかもしれないけれど、その本質たる教えはちゃんと在り続けているんだよ、その教えを依り所にしてくださいねという、最後のメッセージの一つであり、「自灯明・法灯明」にも通じる部分を感じる喩えです。

この喩えを味わいながら、私はふと、ある詩を思い出しました。その詩というのは、「恋しくば南無阿弥陀仏と称うべし 我も六字のうちにこそ住め」という詩です。これから死を迎えようとする人が、遺される家族に対して、私がいなくなって寂しくなったならば、「南無阿弥陀仏」とお念仏して下さい。その六字の中に、私はいますから、というこの詩。人としての姿は、その人の死によって見えなくなっても、「仏さま」となったその人のはたらきが、「南無阿弥陀仏」と称える私のところに届いている。そんなことを教えてくれる詩です。

私も今年、祖母を亡くしました。祖母の姿、祖母の声を、今はもう感じることはかないません。けれども、祖母の姿は見えなくとも、祖母がいてくれたこと、祖母が私に与えてくれたことは、私のいのちの上に、しっかりとはたらき続けてくれています。祖母のいのちもまた、月と同じように、見えなくなることがあっても、しっかりとそこに在り続けてくれている。その在り方はまさに、「仏さま」として、なのだろうなと思います。その見えないはたらきを私に教えてくれるのが、きっと「南無阿弥陀仏」という、仏さまの世界からの言葉なのでしょう。

お盆の時期、皆さまもお墓やお仏壇に手を合わせ、大切な亡きご家族や、ご先祖に思いを馳せることでしょう。その折には、どうぞ亡き方のはたらきが、見えないけれど確かにある月のように、自身のいのちのところに届いていることを、イメージされてみてください。そしてまたできることならば、「南無阿弥陀仏」とひとこと、お念仏を申していただければと思います。

日下 賢裕

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。