「悲」

今年も、この一年を漢字一字で表す「今年の漢字」が発表されました。今年の漢字は「安」の一字に決まりましたが、皆さんはこの一年を漢字一字で表すとすると、どんな漢字を選ばれるでしょうか。きっとそれぞれ、いろいろな漢字を思われることでしょう。

私はこの一年を振り返って考えると、一番最初に思い浮かんだのは「悲」という漢字でした。その理由は、少し前にここで「ああ有情」ということでも書きましたが、今年一年、多くの悲しみの縁に接してきたこと、そして人は誰しもが悲しみを抱えた存在であるということを、痛切に感じたためです。

またちょうど最近、こんな言葉に出会ったことも、この「悲」という漢字について考えるきっかけとなりました。それは「怒りは人を分裂させ 悲しみは人と人をつなぐ」という言葉でした。どなたの言葉なのかまではわかりませんでしたが、本当にそうであるなあ、と頷かずにはおれませんでした。

しかしこの言葉を味わっていて、一つだけ注意しなければいけないなと感じたこともあります。それは「悲しみ」が自分だけが抱えるものと思ってしまうことがある、という点です。悲しさを感じる場面を想像しますと、辛い現実に押しつぶされ、受け入れたくないという思いや、どうして自分がこんな目に遭うのだ、という思いも起こっていきます。私だけが悲しい、私だけが辛い。誰もわかってくれない。悲しみが深ければ深いほど、余裕がなくなり、周囲のことに目を向けることができずに、そのような思考状態に陥ってしまいますが、それはともすれば怒りに近いものにもなってしまうという危うさもはらんでいます。もちろんそれは、自然な心の反応の一つでもありますから、そう思ってはいけない、というわけではありません。しかし悲しみが怒りの方に振り切ってしまえば、暴力やテロにまで行き着き、人と人を大きく分断してしまうものになってしまいます。まさに「怒りは人を分裂させ」てしまうのです。

仏教では、「悲」という言葉はよく「慈悲」というフレーズで使われます。この場合の「悲」というのは、「カルナー」という言葉を訳したもので、あわれみの心、他者の抱える苦悩をなんとかせずにはおれない心であるとされます。自分が辛い目に遭って悲しいのではなく、他者の悲しみを我が事のように感じ、それをなんとかしてあげたいという心は「抜苦」の心とも解釈されます。

ただ、実際に人の持つ苦悩を解決する、ということはとても難しいことです。人の持つ悲しみに寄り添うことさえ、言うほど簡単にできることではありません。けれど、人もまた悲しみを抱えた存在であるということを思う時、自分の悲しみと、人の悲しみとが(例え別種のものであったとしても)、どこかで結びつき、相手を思いやるという心に繋がっていくのではないでしょうか。そこにはきっと、その悲しみを癒やすはたらきも生まれてくることでしょう。「悲しみは人と人をつなぐ」という言葉は、そのことを表しているのだと私は感じています。

こうして「悲」という漢字について考えてみますと、「悲しい」という言葉から想起されるネガティブなイメージだけでなく、人と人とが、互いに思いやるために大切な心であったことに気づきます。もちろん、悲しい出来事は多くないに越したことはありませんが、悲しみをただ悲しいだけでは終わらせないはたらきが、実は「悲」という心にあるということ。改めて心に留め置きたいことです。

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。