境界線

私たちは知らず知らず、いろんなことに線引をして生きてるんだなあ、と時々感じることがあります。善いとか悪いとか、好きとか嫌いとか、アリ/ナシとか、物事を2つに分けて線引することもありますし、何かルールを決めるというのも、一種の線引です。

例えば、私はFacebookをしていますが、時々見ず知らずの方から友だち申請があります。友達の友達であったりするので、どうしようか考えますが、なんのメッセージもなしに申請される時には、基本的にはお断りしています。もちろん、直接の知り合いであればその限りではありませんし、メッセージがあればリクエストに応じます。メッセージがあるかないかで決める、というのが、自分の中で作ったルールで、応じるか否かの線引をしています。

このような線引は、人それぞれ異なるものです。物事の善し/悪し、好き/嫌いという判断も、人によって違います。いろんな物事に対して、どういった線引をしているか、ということが、その人のキャラクターを作り上げていると言ってもよいかもしれません。

しかし、線引をするということは、内と外とを決めることでもあります。自分にとって心地よいとするものは内に、それ以外は外へと追いやる。ところがその線引は時にイザコザを生み出すことになってしまうこともあります。自分が心地よいとしたもの、自分が善い/良いと信じたものが、他の人にとってはそうでは無かった時、その二人の間には、溝が生まれます。もちろん、お互いが違う感性であること、立脚するものが違うということがお互いに理解できていればそれは問題ありません。しかし、相手の良しとしたものをけなしたり、あるいは苦手としたものを、その良さを理解できないとは、と言った風に見下せば、当然諍いになってしまうことでしょう。

本来、人が物事に対してどのような線引をしていようと、自分にとっては関わりのないはずなのですが、自分の価値観こそが正しい、と誤った認識をしてしまうと、人の大事にしている部分に平気で土足で上がるような無礼な言動を招きかねません。たとえどんなに優れたものを人に勧める場合であっても、その人の線引から外れる時には、それを無理強いしては、より強い拒絶反応を起こしてしまったり、逆に自分の価値観を否定されてしまえば、関係悪化は否めません。

線引をする、ということは、私たちの価値観を形成する上で、必要な行為です。譲れない信念や、しっかりとした自分の立脚地や依り所を持つ上でも、線引をするということは必要です。しかし、その線引故に、人との価値観の相違によって、苦しみが生じてきます。線引することは、執着ともなりえますし、あるいは二元論的な物の考え方しかできなくなる、邪見にも繋がりかねません。それが強くなれば、自分の価値観に合わないものは排除せずにはおれないというような攻撃性を帯び、人を傷つけかねない、恐ろしさも秘めています。

そのようになりかねない線引を解きほぐすのが、仏教の教えなのかもしれません。善し/悪し、好き/嫌いという判断は、所詮自分の都合で決まるものでしかありません。しかもそれはその時々によって変わりかねない曖昧なものでもあります。そのようなもので、自分勝手に境界線を作り、内と外を分け、違う価値観を排除していくことこそ、苦しみの種となっていきかねない。そのような二元論的な価値観を超えることが実は大切だと、仏教は教えてくれているのではないでしょうか。

浄土宗や浄土真宗のご本尊は阿弥陀仏、という仏さまです。この仏さまのはたらきは「無辺(むへん)」とも言われます。「無辺」とは文字通り、「辺」が無い、ということ。私のように、あれもこれも自分の都合で線引をして、境界線を作っていくような在り方ではなく、一切の境界線を取り払い、内も外もない、無限の広がりを持つ、ということ。そして、一切の別け隔てをしない、排除をしない、というはたらきであるとも言えるでしょう。仏教の理想の在り方の一つが、この阿弥陀仏、あるいは「無辺」という言葉に、表されているように思います。

私自身は、「私が、私が」ということからなかなか離れられず、我を張り、いろいろな線引をし、それによって、拒絶したり、人とぶつかることもしばしばで、とても阿弥陀仏のようには在れません。それでも、人はそれぞれ価値観が違うものであること、そして自分の線引が決して絶対的なものではないということを忘れないようにしたい。そんなことを思う今日この頃です。

日下 賢裕

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。