ドーナツの穴 その2

もう3年ほど前に「ドーナツの穴」というタイトルで、「日日是好日」を書きました。ドーナツの穴は果たしてドーナツの一部なのか?というところから、「空(くう)」ということについて考えてみたのですが、今回はもう一度このドーナツの穴を元に、「私」という存在について考えてみました。

ドーナツの穴とは不思議なもので、あの穴はなんでもない、ただの空間です。ドーナツの外の空間となんら変わりありませんし、ドーナツを移動させれば、ドーナツの穴も移動し、「この空間こそがドーナツの穴だ」と言える空間は存在しません。強いて言えば、その穴の外側にドーナツがあるかないかの違いだけです。

しかしもし、ドーナツがなかったら、どうなるでしょう。すると途端に、「ドーナツの穴」という空間は雲散霧消します。ドーナツの存在が、ドーナツの穴という空間を生み出し、その外と同じであった空間に、「ドーナツの穴」という属性を付与する。つまり、ドーナツとの縁起的関係によって、ドーナツの穴は存在する、ということです。しかしこのドーナツの穴は、ドーナツがあるかぎり確かに存在するわけですが、先にも書きましたように、「この空間こそがドーナツの穴だ」と断定できる空間はありません。ドーナツを動かせば、その穴も移動し、別の空間がドーナツの穴となる。つまりドーナツの穴は、常に変化する無常の存在であり、また特定できる空間のない、無我の存在ということができるのではないでしょうか。

実は「私」という存在も、この「ドーナツの穴」と同じようなものなのかもしれません。「私」という一人の人間は、確かに存在します。しかしそれは、ドーナツの穴がドーナツ抜きには存在しないのと同じで、私一人で存在しうるものではないのです。私の存在を成り立たせているのは、実は私の周囲にある存在だったのです。それは、家族であったり、友人であったり、あるいは会ったこともない先祖だったり、その先祖と繋がりのある人であったり、そういう無数のいのちのはたらきが作用し合い、影響し合い、今この私という存在を作り上げているのです。

けれどその存在は、やはり無常であり、無我のものに他なりません。私という人間は身体も心も、常に変化し続けています。そして私を取り巻くドーナツ、つまり縁と呼ばれる関係性に依らずしては存在しない、縁起的存在です。周りを取り囲むドーナツに変化があれば、私もそれに影響されてゆく。ドーナツの穴が「空っぽ」であるのと同じように、私もまた実は、「空っぽ」の存在なのです。

しかし、「空っぽ」だから、私にはなにも無い、虚しい存在なのだというように、悲観することはありません。私は空っぽであるかもしれないが、様々な縁に依ってその空っぽの私が作られているわけですから、見方を変えれば、私という一人の人間は、無数の縁に満たされた存在であるとも、言えるのではないでしょうか。

無常であり、無我であり、「空(くう)」ということが、私の存在の真実の在り方だという仏教の教えは、明確な意識と肉体を持って生きていると感じる私たちには、時に受け入れがたいものであったりします。けれど、ドーナツの穴がドーナツに満たされてあるように、私もまた様々ないのちの繋がりの輪に満たされてあると見ていくと、無常や無我という仏教の教えも、少し違ったイメージで受け取ることができるのかも、しれませんね。

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。