陰口を言うこと

先日、数名の友人と食事に行った時のこと。一人の友人が、その場にいない別の友人の不平を言いを始めました。お酒の力もあってか、かなり辛辣なことを言っていたのですが、その非難されていた人も、私の友人でした。私にとってはそんな非難されるような人物ではないので、そんなことないとフォローをしていたのですが、どうもその二人はそりが合わないようで、なかなか溝は埋まらず、なんとも複雑な気持ちになってしまいました。

家に帰ってからも、なんとなくその複雑な感情は残り、モヤモヤとしたまま眠りにつきました。しかしよく考えますと、私も人の事を言えた義理ではなく、人の悪口を言ったり非難していたことがないわけではありません。特にお酒が入った席などでは、酒の肴に、ではありませんが、その場にいない人を槍玉にあげて話題が盛り上がることもあります。しかしひょっとしたら、その中には非難されている人の友人もいて、私と同じように複雑な心境になっていた人もいたかもしれません。もちろん、一番傷つけられているのは陰口の対象となっている人です。その場にはいなくとも、そうやって悪い感情を持たれているという事実があるわけですから、もしそれを知ってしまったなら、どんなに傷つくことでしょうか。

さらに、陰口を言うということは、自分自身もまた「そういう人間である」というイメージを人に与えかねません。その場ではいい感じに盛り上がったとしても、信頼に値しない人物として、また批判の対象となるということも考えられます。スッタニパータには、

人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。

という一節があります。まさに自らの言葉によって作り出す業が、我が身を傷つけることにも繋がってしまうのです。

しかし、こうして人の悪口を言ってしまうというのは、それが一種の快楽であるからなのかもしれません。人の悪い部分を見つけ糾弾する。それはある意味自分は正しいんだということを振りかざせることでもあり、カタルシスを得ることができます。その快感がまた人の悪い部分を探すことに繋がり、どこか非難できる部分を無意識に探して、言葉による罪を犯させる。まさに負のスパイラルです。

人の悪い部分というのは目につきやすく、そしてそれを非難の種にするのは簡単なこと。しかしそれはあまり良い影響を生まないものです。人の悪いところにばかり目をやるのではなく、人の良い部分を見つめること。そして人を非難の対象とするのではなく、敬いの心をもって接すること。私自身、これからしっかりと気をつけていかねばならないことでありました。

日下 賢裕

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。