してあげる菩薩としてもらう菩薩

先日、あるお坊さんのご講演のレポートを書くために、録音の文字起こしをしているとき、思わずタイピングする指が止まったお話がありました。

「人は誰かに何かをしていただいたときに菩薩になれるんです」

一瞬、聴き間違えたのかと思いました。仏教にはお布施という考え方があります。お金やものを施す「財施」、仏法を説く「法施」、相手を慰め恐れる心を取り除こうとする「無畏施」、笑顔を見せる「和顔施」ややさしい言葉ではなす「愛語」なども含まれます。

相手に対して慈悲の心を持って何かを成すことのほうが菩薩さまに近い感じがするのだけれど、なぜ「何かをしていただいたときに菩薩になる」のでしょうか。みなさんもちょっと不思議に思いませんか?

「何をしてあげればよいのか?ということを考える人ばかりでもだめなのです」

なぜなら、誰かがお布施をするときには「相手がいなければできない」から。だからこそ、してもらう側もまた菩薩なのだとお坊さんは繰り返し説いておられました。

病気になったり、元気がなくなったりすると、「ああ、今の私は人のお世話にばかりなっていて」「迷惑ばかりかけてしまっていて」と落ち込んでしまうものです。でも、この「誰かに何かをしていただいたときに菩薩になれる」式の仏教的発想は、なんだかとても救いがあるように思えてなりません。

今日は「してあげる菩薩」の人も、明日は「してもらう菩薩」になるかもしれません。あさってには、その立場が逆転することもあるでしょう。

世の中って「してあげる菩薩」と「してもらう菩薩」が順番に入れ替わりながら、慈悲がサイクルしているんだと考えると、ちょっと気楽に生きていけるような気がします。

今日も彼岸寺にお参りいただきありがとうございます。
良い一日をお過ごしください。合掌。

お坊さん、地域で生きる人、職人さん、企業経営者、研究者など、人の話をありのままに聴くインタビューに取り組むライター。彼岸寺には2009年に参加。お坊さんインタビュー連載「坊主めくり」(2009~2014)他、いろんな記事を書きました。あたらしい言葉で仏教を語る場を開きたいと願い、彼岸寺のリニューアルに参加。著書に『京大的文化事典 自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)がある。