新しい本堂スタイルに挑戦の巻/極楽寺 麻田弘潤さん(2/3)

新潟・小千谷『極楽パンチ』のお坊さん、麻田弘潤さんインタビュー第2回です。今回は、お坊さんとしての麻田さんにフォーカス。何を考え、どんなふうにお坊さんとして日々を送っておられるのかを、じっくり聴かせていただいています。

前回の記事はこちら→ 避難所だったお寺の復興イベント『極楽パンチ』の巻

あたらしい本堂のスタイルを考える

「阿弥陀さまの本願のもとすべての人は平等に救われる」という教えを表現するなら、もっと平等なイメージを現わす本堂のスタイルがあってもいいのでは? ――麻田さんが『キャンドルナイトライブ』のときに、本堂の内陣までを使ったデコレーションを許容する理由には、実はそんな思いがこめられています。

——たいていのお寺イベントでは、本堂の外陣だけを使ってご本尊を安置する内陣には立ち入らないようにされています。『極楽パンチ』のライブでは、内陣にバルーンやキャンドルがたくさん入っていましたね。

以前は、僕もお寺というのはご本尊を安置する内陣とみなさんが座られる外陣があって、法を聴く場だと習ってきたのでそう考えていました。でも、震災後に避難所になったときに、住職が「ここは本堂として使わないから」とご本尊を移動させて、本堂の空間を全部避難所として提供したんですね。それでちょっと見方が変わって、本堂の仏教のあり方を考えるようになりました。

当時は、祖父が元気だったので、避難されている方がまだおられるのにお夕事(夕方のお勤め)をやりたがるんですね。祖父は「お寺だから当然だ」と言うのですが、お夕事をしていると避難されている方が「早く出ていかないといけない」という気持ちになってしまう。「お寺だからお勤めするべきだ」と型にこだわるのが仏教なのか、そこを外れても避難されている方に寄りそうのが仏教なのか? 本当は、社会的に抑圧されているものを解放するのが仏教のはずなのに、がんじがらめになっているのが今の仏教じゃないだろうかと思ったんです。

——静かにラジカルなことをおっしゃっていますね。あのバルーンやキャンドルにはそういう気持ちもあるんですね。


はい。「みんな阿弥陀さまに救われていって平等なんだ」と言うなら、親鸞聖人も僕らも同じ人間ですよね。もっと平等な感じを出すにはどうしたらいいかなという実験的なところもあります。

「若い人がお寺に来ない」「門徒さんが離れていく」というのは全国的な課題だと思うのですが、あたりまえだなと思っていて。僕らは内陣に入らせてもらって、仏さまを間近に見る機会が多いわけなんですけど、聖域だからと結界を作って他の人には入らせないじゃないですか。なんでそんなことをするのかなと思います。

教えはみんなに平等に届くはずなのに「こういう服装じゃないとダメ」とかおかしいと思うんですね。収入によっては、いい衣を作れない人もいるし、その人の生き方によってはサンダルで通す人もいる。それぞれの生きざまを認める内陣であってもいいんじゃないかという気持ちはあります。

僕らはどこまでいっても迷いの存在だと習ってきていますし、そんな人間がいくらお経を研鑽して作ったとはいえ、現在の内陣が絶対に正しいとは言えないと思うんです。だったら、自由に考えてもいいんじゃないかなと。

——社会に合わせて教えの解釈が変わっていく歴史もありますね。

そうなんです。決して先輩方が作ってきたものが正しいとは限らないので、つねに検証して変えるべきところは変えていくほうが自然かなと思います。教えの部分では検証が進んでいて、戦時中のことや差別に対する反省という点からもいろんな学びがあり、変わってきているのですが、内陣の形態は全然変わっていません。教えに基づいて内陣を作るなら、戦前のままでは間違っている可能性があることも考えられます。まあ、バルーンとキャンドルがボコボコあるのが正しいとは思っていませんが(笑)。

現実から出発する仏教をやりたい

自分が属している組織や社会について、批判的な視点を持つのはなかなか難しいものです。しかし、「つねに検証して変えるべきところは変えよう」という麻田さんの言葉は、震災後を生きている私たちに深く響くところがあるのではないでしょうか。お父さんの影響で、本願寺派の戦争責任や差別の歴史について研究を続けられている麻田さんの思いについて、聴かせていただきました。

——ご自身が所属されている組織に対して、批判的な視点を持つようになったのはどうしてですか?

父が、本願寺派による差別の問題(現実に変更)を明らかにし、その体質が今も残っていることをきちんと解明するということに取り組んできたからですね。教学や教えのなかに閉じこもらず、現実にあるものをちゃんと見ていくという基本スタンスで。宗教は、現実の問題から出発して、現実を超えようとするものだと思うんです。でも、検証を進めていくなかでは教団を否定する作業もあるから、伝統的な教学を支持する人たちとはぶつかりあう。父はすごく身体を張ってやってきたと思います。

僕自身も、学生時代から教団による差別の現実に資料で触れる機会がすごく多かったので、他の人が習えば習うほど「すごくいいな」と盛り上がって信心を深めていくなかで、「ほんとかな?」と遠巻きに見ている感じだったというか。

——批判的な立場を取りながら、その組織に属するのはしんどくはないですか?

教学研究をする人たちや、伝統を重んじる人たちを否定するわけではないんです。ただ、肯定的に研究すると同時に、批判的に見ることもしないと偏りが出てしまうと思うんですね。ホンダの本田宗一郎氏は「ブレーキは車を速く走らせるためにある」と言ったそうですが、ブレーキのない車には乗ることができないのと同じで、批判する存在のいない組織は暴走するのではないでしょうか。

宗教って、基本的にのめりこんでいくものだと思う。だから、そこで一歩止めてみる役割も必要です。批判精神は常に持っていないと、自分自身にも、組織にもチェック機能がなくなってしまうと思います。

「おばあちゃんにもできるんです」で仏教がストン

「習えば習うほど遠巻きに見ていく」。そんな気持ちを味わっていた麻田さんは、学校を出てしばらく京都で介護の仕事に就きました。そのときに出会った、認知症を患うおばあさんのヒトコトから、「仏教がストンと身に落ちる」経験をすることになります。

——麻田さんは、いつ「仏教でいこう」という気持ちになられたのでしょう。

介護の仕事をしていたときに、認知症のおばあさんがお皿を洗う手伝いをしていると、終わった後に「おばあちゃんにはできないと思ったでしょ? でも、あなたが手伝ってくれたらおばあちゃんにもできるんです」って言われて。「できない」と思っていた人に「できるんです」と言われてビックリしたんですね。

僕は「おばあさんは”できない”人だから手伝ってあげている」という感じでいたんですけど、「できる/できない」の判断はすごく自分勝手なものだったんだなと思ったときに、初めて習ってきた仏教がストンと落ちたというか。

——「できる/できない」の判断はすごく自分勝手なもの。

僕はたまたま身体条件が洗い物をするのに適しているだけに過ぎなくて。いろんな要素によってたまたまこの状態になっていて、そのおばあさんはまたいろんな条件が重なって認知症になっている。でも、おばあさんに「僕」という条件がひとつ加わるだけで、「洗い物ができる」状態になりますよね。

そう思うと、「できる/できない」は、実はものすごく些細なことだなと思えたんです。そうすると、阿弥陀さまの「誰もを認めていく」という教えってすごくいいなあと思えたし、仏教だったらもっといい介護ができるんじゃないかとも思って、身に落ちたというか。そこから、介護のしかたもすごく変わりました。

「この人はこうだ」「ダメな人だ」と思っていたけれど、ダメとかダメじゃないっていうところを飛び越えたところに仏教があるんじゃないか。仏教の教えが広まるとどういう社会になるのかな、もっと仏教を使った社会になればいいなとも思うようになりました。それで、お寺に帰ろうかなと思いはじめたりもして。

——そのひとことがなければ、お寺に帰るのはもっと後だったかもしれない?

いや、帰ろうと決めたのは、怒りだした門徒さんがいたからですね。門徒さんとの関係も社交辞令的で本心が見えない感じがあったのですが、あるとき酔っ払った70半ばのおじさんが「バカヤロウ、てめえ。早く帰ってこい、コノヤロウ!」って言われたんです。文句を言う人がいるなら成長できるチャンスだし、帰る価値もあるかもしれないと思って帰りました。

その人とは、今はすごい仲良しです。お参りに行くと飲んで、「最初はお前が嫌いだったけど、今は俺はお前が好きだあっ!」「いやあ、ほんとおかげさんですよ」みたいな。そして、気づいたらふたりとも仏壇の前で寝ています(笑)。(次回へ続く

プロフィール

麻田弘潤/あさだこうじゅん
1976年新潟県小千谷市生まれ。2000年龍谷大学短期大学部卒業。 浄土真宗本願寺派僧侶。父・住職が取り組む被差別部落問題に関心を寄せ、自らも研究を行う。2006年、中越地震で被災したことをきっかけに、エコをテー マとした復興イベント『極楽パンチ』をスタート。今年で7回を開催し、循環型社会への移行に向けたメッセージを発しつづけている。東日本大震災以降は原発 問題に関心を寄せ、2012年4月『東電・柏崎刈羽原発差止め原告団/市民の会』共同代表に就任。特技は消しゴムハンコ。イベント等で消しゴムハンコワー クショップも開催中。

浄土真宗本願寺派青木山極楽寺
1511年創建。大正15年、先々代住職が洋裁学校を併設した 洋館づくりの本堂を落慶。女性にも教育の機会を開くとともに、小千谷初の幼稚園の場を提供、講堂でダンスパーティーを開く等、早くから地域に開かれたお寺 として活動していた。また同時に境内の墓地を全てなくして、本堂の地下に納骨堂をつくり、「みんなが一緒に仲良く入る」スタイルをいち早く実現した。 2004年、建物の老朽化のため、本堂を再建。納骨堂は独立した建物にし、いつでも誰でもお参り出来る環境になっている。
住所: 新潟県小千谷市平成2-5-7
極楽パンチブログ http://blog.gokuraku-punch.com/

■関連リンク
境内に60店舗! 老若男女でにぎわうエコマーケット『極楽パンチ2012』レポート(前編)
七尾旅人×U-zhaanにちょっぴりインタビュー!『極楽パンチ2012』レポート(後編)

お坊さん、地域で生きる人、職人さん、企業経営者、研究者など、人の話をありのままに聴くインタビューに取り組むライター。彼岸寺には2009年に参加。お坊さんインタビュー連載「坊主めくり」(2009~2014)他、いろんな記事を書きました。あたらしい言葉で仏教を語る場を開きたいと願い、彼岸寺のリニューアルに参加。著書に『京大的文化事典 自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)がある。