現代的仏教カルチャーの仕掛け人/雪山俊隆さん

雪山俊隆さんは、富山の名刹・善巧寺の22代住職であり、全国の音楽ファンに知られている『お寺座LIVE』を開催するポップな住職であり、また仏教エンタメサイト『メリシャカ』のメンバーとしても活動されています。でも、雪山さんのスゴさは、経歴や肩書き、あるいはその活動内容では語り尽くせません。自分の目の前にあることから逃げずに、一つひとつ受け止めていく苦しみに向き合うこと。それは、誰にでもできることではありませんよね。ていねいにじっくりと雪山さんを”めくって”まいりたいと思います。

名僧たちが歴史が刻んだ寺に生まれて

——曾祖父さまはドイツ文学者、お祖父さんは文学者志望であったりと、善巧寺のご住職は代々ユニークな方が多いですね。

そうなんです。うちはちょっと特殊かもしれません。約550年の歴史のなかで、一番有名なのは11代目住職で、江戸時代の真宗教学の中枢を担った僧鎔(そうよう)さん(1723-1783)。「難しい経典をわかりやすく一般の人に説く」ために全国をまわり、善巧寺に『空華盧(くうげろ)』という仏道を学ぶ私塾を開いた人です。『空華盧』には、全国からお坊さんが学びに来て、僧鎔さんのお弟子さんたちもまた全国で私塾を作るんですよね。その後、少し時代を下って、明治時代にドイツに留学して、ドイツ文学者として活躍した19代目の俊夫、そして日本浪漫派の文学者として評論を発表し、哲学教授として教鞭をとった20代目の俊之が、僕の祖父になります。

父は「僧侶になった新聞記者」として、お寺の子ども劇団「雪ん子劇団」を成功させた住職として、本願寺ではよく知られていました。テレビのドキュメンタリー番組や著書、そして永六輔さんとのおつきあいを知って、「すごいお父さんだね」「あの善巧寺の息子なんだ」と言われることも多くて。ヘンなプレッシャーを感じることも多かったです。

——子どもとしては、そういうのはちょっとメンドクサイですね。

そう、メンドクサイ(笑)。父の死の前後に制作されたドキュメンタリー番組は、放送されてから10年ほどはまともに観れませんでした。でも、今はコピーして全門徒さんに配布しようと思っていますし、許可が出れば『YouTube』にもアップしようかと。仏教の魅力を伝えるには、言葉よりも仏教を支えとしていた人間の生きざまを観てもらうほうが手っ取り早いですから。

——お父さまは、一般在家の方だったんですか?

いえ、父は、大阪・高槻市の常見寺というお寺で生まれた人です。子どもの頃から、ラジオドラマの子役をしていて、早稲田大学演劇科に入学。卒業後は、劇団四季、劇団青俳で活動したのち俳優の道を断念して、大阪産経新聞社の社会部記者に転身しました。その頃、北日本放送のキャスターをしていた母とお見合いして結ばれたんですね。

本人同士はさておき、父方の祖父は「お前が行かないなら俺が善巧寺に行きたい!」と言うほど喜んだそうです。実は、祖父の寺は、僧鎔さんの弟子の流れをくむ私塾スタイルの僧侶養成学校『行信教校』の母体なんです。僧鎔さんの時代から200年以上の時を経て、富山と大阪でご縁がつながるなんて不思議ですよね。

——ずいぶん、そうそうたる人の歴史のなかに生まれられたんですね。

中学生までは、外の世界を知らないからそれが当たり前だと思っていたんです。ところが、平安高校に入ってから他のお寺のことを知って「あれ、どうもウチは他と違うな」と、初めて自分のお寺を客観的に見るようになりました。

『行信教校』で受けた強烈なインパクト

——平安高校へ進まれたのは、雪山さんご自身の意思ですか?

いえ、父から「ここを卒業したら得度を受ける資格が得られるから」と紹介されました。父は、僕が中学3年生のときにガンになったんです。もう先が長くないと知って、父は「お前は外に出ていろいろ経験できる時間があまりないから」と考えたのではないかと思います。

子供時代の雪山さん(右)。左は弟さん。

高校卒業後は、中央仏教学院で1年間、行信教校で4年間学びました。特に、行信教校で受けたインパクトはものすごく強くて。先生方の言葉は、ガッサガッサと身体に入ってくるし、周りの諸先輩方は、仏教を生涯学び続けていこうという人ばかり。その方たちを見ていて「これこそお坊さんだな」と思ったんです。

当時の僕はまだ10代。諸先輩方とともに経典を研鑽すると言っても、最初はまるで宇宙語を聴いているような状態でした。もうひとつ、行信教校でビックリしたのは、自分のお寺とは対極と言っていいほど、その在り方が違っていたことでしたね。

——行信教校と善巧寺の在り方、どう違っていたんですか?

行信教校は、「仏法を学ぶ場」という要素がすごく強い。かたや善巧寺は、劇団があったり、イベントがあったりと活動的な面が強い。ストレートに考えると、お坊さんは仏法を説いていくのがど真ん中の道ですよね。それに触れるうちに、うちのお寺の活動的な在り方がよくわからなくなったんですよ。それまでは「そういうものだ」と思っていたのに、リンクしなくなってしまったんです。

失われたリンクを復活させるきっかけは、ひとつあげるなら、叔父の「念仏する者が行うならよし」という言葉。仏教精神を旨として活動するのは坊主の本分である、ということですね。でも、今も葛藤がなくなったわけではないんですよ。ただ、どちらかに偏ることなく引っ張りあう緊張感のなかで、よいバランスをとれるのではないかと思っています。

『お寺座LIVE』のルーツは京都クラブカルチャーにあり!?

——学生時代は、ずっと真面目に勉強ばかりをされていたんですか?

いやいや、僕は根がけっこう遊び人なところがあって(笑)。週末なんかは高校時代の悪友たちと京阪丸太町駅の地下にあるクラブ『METRO』などによく出入りしていました。当時のクラブは、ハウスならハウスだけとジャンルごとに分かれていたけど、『METRO』は毎日全然色が違うんですよ。ジャンルはもちろん客層もガラッと変わっちゃう。それがすごく新鮮だったし、流行りはじめた音楽をすぐに紹介するような尖ったところに、ミーハー気分もすごく満たされました。ある意味、すごく学ばせてもらった場所ですね。

——そのあたりが『お寺座』など、現在の活動にバッチリ活かされてるんですね。

いやいや(笑)。ただ、そうやって京都で遊ぶうちに、「京都の卒業論文」になるような何かをクラブでやりたいと思いはじめたんです。それで、脚本を書いて悪友たちに「ホントは映画を撮りたいけど、無理だから芝居をやりたいと思うんだ」と声をかけ、フライヤーを作って『METRO』で役者のナンパもしました。クラブは音楽の世界だから、劇中の音楽もサウンドトラックみたいに、DJが即興で回したらいいんじゃないかって考えたりね。クラブカルチャーが好きで、僕もお世話になってきたし、そこにいる人たちに何かを届けたかったんですよ。

半年くらい練習をして、富山に帰る前夜に『LAB. TRIBE』で最初で最後の公演をしました。芝居がはねた後はDJに回してもらって、朝まで遊んでそのまま車で帰る、みたいな(笑)。行信教校での学びと、京都での遊びに区切りをつけるというドラマに完全に酔っていたんです。お寺に戻ったのは23歳のとき、すぐに住職になりました。

23歳の若き住職の挫折、そして家出

雪山さんのお寺、善巧寺。大イチョウがシンボルの境内。

——23歳で住職というのは、ずいぶん早いですね。

早いですね。お寺に戻ることについては納得していましたし、お寺で生きていくんだという情熱もありました。ただ、本当のことを言えば、ある程度見習いをさせてもらって、自信がついてから住職を継職したかったんですよね。  そんな僕の意思とは関係なく、「あなたは何もしなくていいからそこに座っていなさい」という雰囲気のなか継職法要はいとなまれて。でも、たまたま寺の息子に生まれたから住職になっただけで、誰も僕を見ていないし意見も求めていない。新しい企画を立てても誰も相手にしてくれない。田舎で何かやりたいときは、企画の面白さよりもまずは人間関係や、事前の根回しの方が大切だと学びました。お寺で自分を発揮できないならと、富山市内のラジオ局へ番組企画を出してパーソナリティもやってみました。ただ、それはお寺や仏教とは関係のない音楽番組でしたし、むなしくなって半年足らずで辞めてしまいました。  住職としての責任を人一倍感じながら、そのプレッシャーを感じていることすら気づかれたくない、そして僕自身を認めてほしいというプライド。周囲からの期待や要望に応えようとすればするほど、自分が理想とする住職像の間にギャップが広がっていくし、どちらになる力もない。今思えば、若い子が、会社辞めるのと変わらないなと思うんだけどね(笑)。  あの頃は、人と一緒にいても常に心は閉じていて、一人でいるときだけが安らぎで。だんだん人に会うことがつらくなって、しまいには一人でいても安らげなくなってくる。3年目には「もうダメだ」と完全に煮詰まって、家出をしてしまったんです。

——出家ならぬ家出を。門の前で一礼して出ていく、みたいな?

いやもう、追い詰められて飛び出したっていう感じですね。置手紙ひとつせず。それで、行信教校の梯實圓(かけはし・じつえん)先生のところへ行って「カバン持ちをやらせてもらえませんか」ってお願いしました。梯先生は、特に驚いたふうもなく「どうした?」と話を聞いてくれて。ボロボロに泣きながら、とにかく胸のうちに溜まっていたものを全部吐き出すようにして話してね。

「やっぱり自分が生きる場所はお寺しかない」

——先生は、よく受け止めてくださいましたね。

完全に目が血走った状態で会いに行ったのに、「おお、雪山くんかぁー」って(笑)。極端に言えば、ちょっと事件を起こしてもおかしくないような、精神的に危うい状態だったと思うんです。先生は、そういう状態の人と何人も会って来てるんでしょうね。全然ふつうでしたもん、僕がボロボロ泣いて支離滅裂なことを言っていても。  ほとんど何も言わずに話を聞いたうえで、「今の時代、付き人っていうのは難しいからなぁ」「やはりお寺に電話くらいはしたほうがいいよ」と言われてね。でも、今は戻れるような状況じゃないだろうし、お寺の状況が許すなら京都に勤式指導所というお経を読む学校があるから、そこに通いながらしばらく休んだらどうかと。それでやっと「ああ、そうやなあ」と思えました。

——当面は、先生のところに身を寄せてお経の学校に通われたんですか?

しばらく車で寝泊まりしながら京都で下宿先を探して。バイトも見つけて、フリーターをしていました。先生には、お経の学校を紹介してもらいましたが、そこに行く意味がわからなくて。昔の友達にも会わず、ひとりでクラブに行ったり、龍谷大学に忍び込んで講義を聴いたり。お寺は母と弟に完全に任せてしまい、僕はひとりで気ままな暮らしをしていました。  約1年後、自分の気持ちを整理してみて、やはり自分が生きる場所はあそこしかないという結論にたどりつきました。

でも、僕に期待してくれていたみなさんをひどく裏切ってしまったわけですよね。とにかく、土下座して謝って「もう一度、お寺をやらせてください」と言いに行こうと決意してお寺に帰ったんです。  僕はね、門徒さん一軒一軒回ってお詫びしようと思っていたんですよ。でも、熱いのは自分だけで。みんなたいして怒っていたわけでもなくてね。勤式指導所に通うために、もう一年時間をくださいということを総代さんにお願いしに行ったら、「じゃあがんばって勉強してきてください」みたいな。「あれ、そんなに期待されてなかったのかな」って気が楽になったくらいでした。それがいいか悪いかは微妙だけどね(笑)。

——あらためて、勤式指導所に行ったのはどうしてですか?

そのときは、お経を学びたいというよりも、ただもう真っ白になってひたすらお経を読みたいという感じでした。それまで、行信教校で学んだり、京都で自分を表現する活動をして「よーし、このふたつを自分はがんばった」と帰ってきたのに、まったくそれが武器にならなかった。でも、それはえらく「我(が)」の世界ですよね。「オレオレ!」っていうような。

——それで、ちょっと空回りしちゃった、みたいな。

そうそう。全然そんなものが通用しない場所で打ちのめされて。もう一度京都に来て、頭を冷やしたわけです。だから、お寺に帰ってからは、「何かしたい」という「我」の部分じゃなくて、いまお寺にあるものを研修としてしっかりやりながら、2、3年かけてクールダウンして住職という役割を引き受けていきました。

ネット上に若い僧侶たちの”表現の場”を

京都で開催されたメリシャカナイト。釈徹宗先生を講師に迎えて「いきなりはじめる仏教生活」の回。

——『ポッドキャスト説法』や『お寺座』をはじめたのは、クールダウンの後くらい?

そうですね。もともと、「ネット上に置いておけば誰かにとってに意味があるかもしれない」くらいの気持ちで、自分の頭とお寺の整理のためにホームページを作っていて。『ポッドキャスト説教』もその一環で、先代がお寺に残した財産があるから出してみようかと。すると、タイミング良く『Apple Store』が日本に上陸したので載せてみたら注目してもらえたというか。

また、地方のお寺にいると、なかなかいろんなお寺から刺激がもらえない。当時は、まだホームページを作っているお寺も少なかったけど、検索したら福山の佐藤知水くん、長崎の加藤心樹くんのサイトが出てきて、彼らとメールをやりとりしはじめました。そんななかで、それぞれにやっているブログをくっつけてコミュニティを作ろうと『メリシャカ』が始まったんです。

今、僕より下の世代の僧侶たちには、情熱を持ってやっている人が多いと思うんですよね。これだけ、お寺の未来がヤバいって言われている時代にやるなら、それだけの気持ちがないとやれない。でも、僕もそうだったけど、若い僧侶がエネルギーを研修する場所や、活かす場所がない。それはもったいないことだと思ったんです。

だからこそ、手をつなぎながら何かできたらいいよね、と。最初の頃の『メリシャカ』には、明確なコンセプトはなかったんじゃないかな。僕の気持ちとしては、若い僧侶が何かを表現していく練習場でもいいと捉えていました。それこそ、うちのお寺と同じで、集まれば何かが生まれるんじゃないかって。

『お寺座LIVE』は一日にしてならず

——『お寺座』も、善巧寺に人が集まる流れから生まれた企画だったんですか?

お寺座LIVE vol.4 ご本尊前に組まれたステージで演奏中のアーティスト

そうですね。もともと『雪ん子劇団』は小学生だけの劇団だったんですけど、だんだん卒業してからもやりたい子が増えたので、中学生から社会人までのシニア部が半自発的に生まれました。すると、シニア部の子たちは、自動的に盆踊りや花まつりのスタッフになるという循環が自然に生まれて、演劇だけの集まりじゃなくなっていきました。 30代前後になると、演出側の視点でものを見る人も出てきて、「何か違ったこともやってみようか」という話になって、僕から『お寺座』を提案しました。すると、素人ながら舞台経験があるので全部手作りでできるわけです。

——『お寺座』に来た時、妙に動きのいいスタッフばかりで「どこから集めたのかな」と。

それね、出演者にもよく言われます。僕よりも、お寺の勝手がわかっている仲間がたくさんいるんですよ(笑)。これは、先代の残した財産が実ったというか、数十年単位での人の成長と循環があるんですよ。そういうスタッフ陣がいることは、うちのお寺の一番の財産ですね。

——お父さんにとっても期待以上の実りかもしれませんね。

いやあ、父は考えていたんだと思います。門徒会館を建てたときも、畳ではなく、カウンターがあってイスに座れるスタイルにしたのは、劇団の子たちが育って行くことを念頭に置いていたんじゃないかな。父はね、死の直前にお寺に来た子に「会館を頼むぞ」って言ったらしいんです。僕は後になってそれを聴いてビックリしました。「俺は頼まれてないぞ!」って(笑)。 彼もまた、いま『お寺座』を実行委員として作ってくれているスタッフですね。

これからのお寺は子ども中心のコミュニティへ

——劇団を通じて、分かちがたくお寺との縁が結ばれていく。

善巧寺境内で夏に行われる『雪ん子夜会』

ほんとにね。うちは、地域の子どもたちが『雪ん子劇団』を核にお寺に来て、『雪ん子劇団』卒業後はシニア部に入ったりと縁が続いていきます。また親の会もできていて、「自分たちの子どもを楽しませよう」という発想で、盆踊りや花まつりを仕切っていますし、かつてはそこで遊んでいた雪ん子OBたちもお手伝いに入ってくれる。今は、OBたちにも子どもができて、またその子たちが劇団に入る……という循環が一巡したところですね。  そして、お坊さんとしての僕は、人が集う場所にどうからんでいくのか問われていると思いますね。一方で、お寺は仏法を伝える場所だというコンセプトは変わらない。それを求めてきた人に、一生懸命伝えるというのは素晴らしいと思うんですよ。お寺によって、お坊さんによって、勝負の場所は違うんじゃないかな。  僕の場合は、与えられた環境があって、まずはその循環を良くしていくことから。それぞれの人の人生の段階で、お寺に来れる時期もあれば、たとえば子育てが忙しくて来づらいときもあります。それぞれの人の状況を見ながら、人の流れを回していく。そして、この30年の間にお寺で生まれた、いろんなグループをうまくつないでいくのが、住職である僕の役割ですね。

——子どもを中心にしてお寺のコミュニティができあがっていくんですね。

今の時代は子どもが家庭の中心。一昔前は、おじいちゃんが家の主で財布を握っていて、何かあったらおじいちゃんに頼むという図式があった。でも、どういう時代であっても、子どもがお寺に来るのはいいことだと思うんです。いまの70代、80代の人たちは、小さいときからお寺に連れられて来ていて、そのまま今も来てくださる方が多いので。父の残したものを見ている限り、子どもを連れてお寺に遊びに来てもらうというのは、僕が今後どうお寺を変化させるとしても、ひとつの核だと思っています。

——「お寺に人を集めてどうするんだ?」という意見もありますけども、善巧寺の例でみると 循環を生むことがキーになるんだなと腑に落ちました。

「お寺に人が集まってどうする? それが何なんだ」という意見もよくわかるんです。でも、やっぱり人が集まるなかで生まれてくるものを僕は見ているから、それがすごく大切なんです。集まらないと、何も起きないし生まれないから。

人の循環がお寺を活かすエネルギーになる

——循環が生まれる前にあきらめる方も多いでしょうし、お金で場所貸ししても循環は生まれないのかなと。

『お寺座LIVE』の夜の門徒会館のようす

そこが難しいところだと思いますね。お金で場所貸しもいいだろうけど、それがメインになるとどこかおかしくなってしまう。うちも『お寺座』などのイベントで気をつけているのはそこです。『お寺座』は今年で5回目、もっと長くやれば見えてくるものもあるでしょうね。『お寺座』も、ただの音楽イベントならお寺でやる意味は感じないんです。でも『他力本願で行こう!』の第一回を見に行って、お経と法話を入れたスタイルを体験して「これはいけるな」と思ったんですよ。  来てくださるミュージシャンの方にも、こちらのコンセプトをまず伝えて、ある程度わかってくださる方に来ていただく。そして、必ずお寺に泊まっていただいています。泊まるとなると、みなさんも腰を落ち着けて飲むわけだし、密度も濃くなって交流も深まります。

——お経を読むときに、何も言われなくても正座が広がっていったのが面白かったです。

こちらは何も言わないのにね。『お寺座』に関してはね、「今、この場が縁なんだ」と言いきってしまっていいんです。お経や法話も入れて「お寺の音楽会はこういうスタイルです」とポンとやって、お寺で遊んで楽しんでもらえればそれでいい。  お客さんのアンケートを見ると、音楽を楽しみながら、お寺という空間から何かひとつでも持って帰ってくれている声が聞こえてくるし、そこに意義を見出せたからつづけようかなと思っています。

——次の10年に、雪山さんがやりたいことはなんですか?

ひとつは、お寺にあるいろいろなグループをつなぎあわせること。もうひとつは、自分がお坊さんとしてどこまで立って行けるかということですね。僕は、お寺に来る同世代の人たちを見ていて、一方的に話を聴かせる「法座スタイル」以外のスタイルで、仏教を伝える方法も考えていく必要があると思っています。だから、ふつうにお茶したりお酒を飲んだりするなかで、どこまで仏教徒としての自分を出せるかが、これからの課題だなと。先の叔父の一言に尽きますが、自分自身が仏教と向かい合う中で道が定まっていくと確信しています。

坊主めくりアンケート


1)好きな音楽(ミュージシャン)を教えてください。特定のアルバムなどがあれば、そのタイトルもお願いします。

ルーツレゲエ、ソウル、ジャズ、クラブミュージックという流れで音楽に入っていきました。ビョークがアイドルです。
今は日本のミュージシャンに注目しています。お寺座ライブに出演されている方はみんな大好きです。

2)好きな映画があれば教えてください。特に好きなシーンなどがあれば、かんたんな説明をお願いします。

「ブルー・イン・ザ・フェイス」
「スモーク」の続編的映画で煙草屋のお話。ひと癖もふた癖もあるお客さんに対して、ハーヴェイ・カイテル扮する店長オギー・レンの接し方に憧れます。
最近では、「色即ぜねれいしょん」。仏教系の高校に通う主人公に、自分の過去を重ねて観て赤面。

3)影響を受けたと思われる本、好きな本があれば教えてください。

「私の個人主義 / 夏目漱石」「地下室の書記 / ドストエフスキー」
最近では、「愚の力 / 大谷光真著」。 「お坊さん革命 / 松本圭介」などの若手僧侶によるエッセイにも共感します。

4)好きなスポーツはありますか? またスポーツされることはありますか?

中学生までは野球少年でしたが、最近めっきり動いていません…。

5)好きな料理・食べ物はなんですか?

ざるそば、山菜、スパイスの効いたアジア料理、トンカツ。

6)趣味・特技があれば教えてください。

企画したり、演出したり、演じたり、チラシを作ったり、写真を撮ったり、ライブに行ったり、選曲したり、サイトを作ったりと、どれもお寺に繋がっていきます。

7)苦手だなぁと思われることはなんですか?

計画性。

8)旅行してみたい場所、国があれば教えてください。

長期の旅行は行けないので考えないようにしています。

9)子供のころの夢、なりたかった職業があれば教えてください。

野球選手。

10)尊敬している人がいれば教えてください。

高僧方や諸先輩方、関係を深めた人はみな尊敬しています。
あえて挙げるなら、梯實圓師、利井明弘師、父。

11)学生時代のクラブ・サークル活動では何をされていましたか?

野球、バトミントン。

12)アルバイトされたことはありますか? あればその内容も教えてください。

派遣、飲食店、肉屋の配達、土建業や引っ越しのバイトなど。

13)(お坊さんなのに)どうしてもやめられないことがあればこっそり教えてください。

夜更かし。

14)休みの日はありますか? もしあれば、休みの日はどんな風に過ごされていますか?

寺にいる限り休みという感覚はないので、休み=外泊です。

15)1ヶ月以上の長いお休みが取れたら何をしたいですか?

徹底的な掃除、お世話になっている人たちへ恩返し、脚本制作、サイトリニューアル。

16)座右の銘にしている言葉があれば教えてください。

男子一生の仕事 楽をして出来ると思うな 馬鹿
褒められて 我賢しと思うなよ 真に褒める人の少なし

17)前世では何をしていたと思われますか? また生まれ変わったら何になりたいですか?

回答なし

18)他のお坊さんに聞いてみたい質問があれば教えてください。(次のインタビューで聞いてみます)

「最近ワクワクしたことはなんですか? 」

19)前のお坊さんからの質問です。「人を救っていますか?」

本質から言うならば、一時の気休めを共有しているぐらいなのかもしれません。救いについて、一緒に考えていける仲間を増やしていきたい所存です。

プロフィール

雪山俊隆/ゆきやま・としたか
1973年生まれ.善巧寺22世住職。30年続く児童劇団「雪ん子劇団」の指導や地元ラジオ局でのパーソナリティなどを行う。『お寺座 LIVE』(2006年スタート)などの取り組みを通じ若者で賑わう寺をめざす。善巧寺のサイト『ZengyouNet』を中心に、インターネットの情報発信にも力を注ぎ、『ポッドキャスト説法』は登録者数が10万人を超え、ニフティ主催の『PODCASTING AWARD 2006』で審査員特別賞を受賞。同時期、お坊さん仲間で仏教エンタメサイト『メリシャカ』を設立。

善巧寺
浄土真宗本願寺派 白雪山善巧寺 
約550年の歴史ある名刹。宇奈月温泉に近い、自然豊かな環境にある。11代僧鎔は、僧侶育成する私塾『空華盧』を開き、3000人にも上る門弟を集めた。19代俊夫はドイツ文学者として活躍し『日本ゲーテ協会』創立者のひとり、20代俊之は『日本浪漫派』として評論を発表したのち各大学で教鞭をとる哲学教授に、また21代隆弘は『僧侶になった新聞記者』として知られており、児童劇団『雪ん子劇団』の創立で注目を浴びた。現在は、数十万本のチューリップを飾り、仏前で初参式を行う華やかな『花まつり』、手作り縁日が境内に並ぶ『盆踊り』そして、秋の夜に行われる『お寺座LIVE』などを開催。「お寺は文化の発信地」をキーワードに、さまざまな活動が展開されている。

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お坊さん、地域で生きる人、職人さん、企業経営者、研究者など、人の話をありのままに聴くインタビューに取り組むライター。彼岸寺には2009年に参加。お坊さんインタビュー連載「坊主めくり」(2009~2014)他、いろんな記事を書きました。あたらしい言葉で仏教を語る場を開きたいと願い、彼岸寺のリニューアルに参加。著書に『京大的文化事典 自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)がある。