禅僧・吉村昇洋さんの本をゼロポイント・魚川祐司さんがレビュー!

読書の秋ですね。いろんな本との”出会い”が楽しみな季節ですが、彼岸寺でまさかの”出会い”が実現しました。

精進料理や臨床心理士としてテレビでも大活躍の禅僧・吉村昇洋さんと、今年お寺界隈で話題をさらっている本『仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か―』の著者・魚川祐司さんの組み合わせは彼岸寺初。「ニコニコ生放送」などでの共演もあるのですが、知る人ぞ知るという組み合わせではないでしょうか。そんなご縁から魚川さんが吉村さんの近著をレビューしてくださいました。

永平寺をルーツとする吉村さんとミャンマーでテーラワーダ仏教を学ぶ魚川さんがコラボレーションすると一体どんな化学反応が起こるのか……正直想像がつきません。ともかくまずは下記の熱のこもったレビューをお楽しみください。そしてその後は、ゆっくりお粥をお召し上がりくださいませ


【ブックレビュー】吉村昇洋『心が疲れたらお粥を食べなさい』(幻冬舎)

2015年の前半に私が読んだ中ではベストの仏教書。『心が疲れたらお粥を食べなさい』というタイトルから、最初は「レシピ本かな?」とも思ったのですが、とんでもない。中身は至極まっとうに、しかしながら同時にわかりやすく丁寧に、「仏教」を語った本そのものでした。

副題に「豊かに食べ、丁寧に生きる禅の教え」とありますが、禅仏教では「日常の動作・行為が、そのまま仏の振る舞い(仏作仏行)であるように行じなければならない」ということが、しばしば言われます。しかし、そのように「己の一挙手一投足のすべてが修行になる」ということが、具体的にはどういうことであるのかということは、禅の道場で実際に修行をしたことのない門外漢には、なかなか伝わりにくいものでもある。この点に関して、誰もが日常において必ず行う「食」という切り口から、明快な手ほどきを与えてくれるのが、吉村昇洋さんによるこの著作の優れたところです。

本書がまず素晴らしいのは、冒頭から私たちのいわゆる「精進料理」に対するイメージを覆してくれること。吉村さんは彼岸寺でも連載をもたれている精進料理の名手ですが、その精進料理に対する私たちの理解は、多くの場合、「野菜しか使わない料理」といった程度にとどまっています。しかし、「精進」の第一義は「仏道修行に励むこと」である以上、「精進料理」も、決して素材だけが理由でそう呼ばれているわけではありません。吉村さんによれば、「精進料理」の語には、

「仏道修行に励むことを支える野菜料理」もしくは、「仏道修行として野菜料理を食べる」という2つの意味(p.15)

が含まれており、ゆえに精進料理というのは、素材や調理や提供のされ方などによって特徴づけられる、単なる料理の一ジャンルとは異なります。そうではなくて、

食べる側であるあなたの “行為(作法)” によってはじめて(…)ただの野菜料理が、”精進料理” になる(p.211)

わけです。そしてもちろん、このことは日本曹洞宗の開祖である道元禅師が、「食事を作ることも食べることも、仏道そのものである」と強調されていたこととも、深い関わりをもっています。

本書においては、そうした「食」と仏道との関わりが、「食べる」「作る」「片付ける」「生きる」という四章に分けて、明晰でありながら、同時に「食」の現場に即した具体的な形で、順序立てて叙述されていきます。著者が二年二ヶ月のあいだ修行した曹洞宗の大本山、永平寺での経験や、時には失敗談も、そこから学ぶことのできた内容とともに語られるので、読者にとっては、親しみも感じながら読み進めていくことができます。

また、「レシピ本ではない」と述べましたが、本書でも朝粥のレシピなどにはふれられていますし、調理や片付け一般のちょっとしたコツについての記述も豊富にあります。ただし、そのような記述はもちろん単なる「コツ」の提示で終わるのではなくて、常に「修行として食事全般に関わる行動と向き合っていく」という仏道の基本精神を背景にしながら、語られていくわけです。

とはいえ、こんなことを申しますと、「食事というのは楽しいものなのに、そんな修行のつもりで食べたり作ったりするなんて、堅苦しくてやってられないよ」と、感じる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、そこはどうぞご安心ください。本書においては、たしかに食事に関する作法の重要性が語られますが、それは「伝統だから大切なのだ」といった、押しつけがましい仕方で無理強いされるわけでは全くありません。

そうではなくて、そのような作法(型)に沿って、丁寧に食事を「行ずる」ことにより、一つ一つの動作に注意が向けられて、「徹底的に今この瞬間に意識を向けて、ありのままに受け止める」という精神の基本的な態度が、自然に育てられていくということ。そして、そのように丁寧な振る舞いを続けていくことで、結果として人の生き方が美しくなるということを、吉村さんの達意の文章は、あくまでやわらかい語り口で、私たちに教えてくれます。

以前に吉村さんとお話しした時に、厳しいことで有名な永平寺の修行について、吉村さんは「楽しかったですね」と感想を述べられていました。もちろん、実際の永平寺の修行は本書に記されているエピソードからもうかがえるとおり厳しいもので、吉村さんも最初はかなり苦労されたようですが、修行の過程で、新米の頃はついていくだけで精一杯だった「作法だらけの永平寺の生活」に、きちんとした意味が存在していることに気づいていき、後には「この作法は良くできているなぁ」と、認識が全く改められたそうです。そうした経験を経た上での、「楽しかった」という言葉であったのだろうなあと、本書を拝読して、私も改めて感じました。

つまり、私たちが単に「無意味なもの、堅苦しいもの」として忌避してしまいがちな作法にも、その背景にはきちんとした意味があり、それを理解した上で作法に則った所作を行うことは、私たちの人生を美しく、楽しいものにしてくれる、ということを、禅の教えに基づきつつ、「食」という私たちにとって身近な場面を取り上げながら説き明かしてくれるのが、本書の特徴であるわけです。

食事や料理という、誰でも当たり前に行うことであるがゆえに、つい注意を怠ってしまいがちな私たちの日常的な振る舞いが、そこでの小さな所作へと意識を向けていくことで、そのまま仏作仏行へと捉え返される。そんな素敵な事態に興味を抱かれる方々には、ぜひご一読いただきたい著作です。

余談ですが、吉村さんとお話しした際に、彼があまりにきちんと話されるので、「吉村さんって、寝転がって本を読んだりしなさそうですよね」と言ってみたところ、「それはしませんねえ」とあっさり答えられて、穴があったら入りたい気持ちになったことがあります。本書にも「態度や姿勢を見れば、その人間の性根が見えてきます」と書いてあって、すると私のように雑な人間はジャンピング土下座をするしかなくなってしまうわけですが、そんなことをしたら、吉村さんには「そんな土下座はなってない!」と叱られてしまいそうで、とにかく背筋を正すしかないなと、本書を読み返して、改めて反省させられた次第です。

寄稿:魚川祐司

1979年生。東京大学文学部卒(西洋哲学専攻)、同大学院博士課程満期退学(インド哲学・仏教学専攻)。2009年末にミャンマーに渡航し、以降は現地でテーラワーダ仏教の教理と実践を学ぶ。著書に『仏教思想のゼロポイント』(新潮社)、『だから仏教は面白い!』(Evolving, Kindle版)。訳書にウ・ジョーティカ『ゆるす』(新潮社)がある。

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