求道の心強いお供に!『十牛図―禅の悟りにいたる十のプロセス―』

空を飛ぶ鳥に足跡はない。何もあとに残さない。そのように何もあとに残さないのが仏法である。「仏法、仏法にあらず、これを仏法と名づく」。これが仏法というものだ。こういうことを信じなければいけないとか、こういう仏さんを拝まなければならんとか、これだけは守らなければならないとか、そういう規約などというものは仏法には何もない。本来の自分の心が分かりさえすればよい。それが仏法である。

(山田無文著『十牛図―禅の悟りにいたる十のプロセス―』禅文化研究所刊 160ページより)

少し前、実家に帰省しているとき、上記の本を熱心に読んでいる私に、父が話しかけてきました。

「おっ、懐かしいな、その本。若い頃に読んだぞ。あの頃、俺、どうしても悟りたかったんだよなあ……(遠い目)」

わ、我が父にそんな過去が……。そして、これ、そんなに昔からある本なのか……。とダブルで衝撃を受けつつ、「で、結局悟れたの?」と聞く私に、「悟れなかった。早々に諦めたよ」と父。そのあっけらかんとした言い方に思わず笑ってしまいながら、そっと奥付を確認すると……なるほど、昭和57年初版第一刷発行とあります。悩み深き青年時代の父が読んでいてもおかしくはない。でも、この『十牛図―禅の悟りにいたる十のプロセス』、いまだに現役で数々の書店に並んでいます。大ロングセラーの有名な本なのですね。

本自体が古ければ、そこに収録されている元の講話はもっと古い。「本書は、山田無文老師が、昭和二十八年に神戸祥福寺の雨安居、雪安居に提唱されたものから収録したものである」とあります。いまから60年以上も前のお話ということになりますね。でも、少し読んでみるとすぐに分かりますが、まったく古臭い感じがしないのですよね。「悟り」という時間や空間を超えたテーマでのお話だからでしょうか。それとも、山田無文さんの、まるで目の前でお話をされているかのような、明るく、生き生きとした語り口のおかげでしょうか。

たとえばこんな感じ。

無字三昧にはボツボツとなれたようだが、なかなかどうして、「正邪辨ぜず」だ。「真偽分かたず」だ。「無ーッ」と言ってはみたが、これでいいのやら悪いのやら、さっぱり分かっちゃいない。まだまだ、足跡を見るというところである。(同書55ページより)

風船玉はふくらむだけふくらませればパーンと割れるよりしかたがない。無字が身体中にいっぱいになれば爆発するよりしかたがない。そう思って、ひとつ楽しんで修行していただきたい。 (同書90ページより)

なんだか読んでいるだけで「ぷっ」と笑い出したくなってしまいますよね。奥深いテーマを扱っていながらも、どこか楽しく、わくわくとした気分で読み進められる本なんです。

『十牛図』は、北宋の末ごろ(十二世紀)に、鼎集は梁山に住んだと言われる廓庵師遠禅師によって作られたものである。人間が本来もっている仏性を、中国でもっとも身近な動物である牛にたとえ、その仏性を求める修行過程が、牧童が牛を飼い馴らすのになぞらえられ、十枚の絵とコメントと詩で表現されている。 (同書「はじめに」より)

この本は、山田無文さんによる「十牛図」の丁寧な解説で構成されています。一口に「悟り」と言っても、そこには十の段階があるそうで……。

第一「尋牛(じんぎゅう)」 仏性(牛)を求めていくという願心を起こした段階

第二「見跡(けんせき)」 先人たちの遺したヒントから、牛のいる方向を見定めた段階

第三「見牛(けんぎゅう)」 牛の姿を見出した段階

第四「得牛(とくぎゅう)」 見つけた牛がどこかへ行ってしまわぬように手綱をつけた段階

第五「牧牛(ぼくぎゅう)」 牛を飼い馴らして我がものとしていく段階

第六「騎牛帰家(きぎゅうきか)」 すっかり手馴らした牛の背に乗り、我が家へと帰っていく段階

第七「忘牛存人(ぼうぎゅうそんじん)」 牛と同一化した自分だけが残っている段階

第八「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)」 牛のことも自分のことも忘れてしまい、無に還った段階

第九「返本還源(へんぽんげんげん)」 この天地がそのまま宇宙の本源であると徹する段階

第十「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」 悟りと一体となった者が身ひとつで街へと出ていき、市井の人々を感化していく段階

上記は、各章で語られた山田無文さんの解釈を、恐れ多くも私がまとめたものですが……。ここでまず、私自身の長年の勘違いがあぶりだされました。私、なんともお恥ずかしいことに、「悟り」のレベルは「牛」によるものだと思っていたんです。

たとえば、Aさんが見たのは生まれたての弱々しい子牛、Bさんが見たのは立派な角を生やした屈強な牛、よってBさんの「悟り」の方が、Aさんの「悟り」よりもずっとずっと優れているのだ、という風に。でも、違ったんですね。「牛」そのものは一匹しかいないんです。「悟り」によって見出される世界はたったひとつ。だから、それ自体には差なんてものは生まれようがないのですね。でも、人間がそれと向き合っていくそのやり方によって、レベルとでも呼ぶべきものが生まれてしまう。そこが、この「十牛図」に示されているのでしょう。

この本を読んで「悟り」の十段階を知ったことで、正直、少しばかり気が遠くなるところはありました。だって、一般に言われる「悟りをひらいた」ところで、なお、3つ目の「見牛」の段階ですよ? そこから先、まだ7つもプロセスがあるだなんて……。悟りをひらいてそれで終わり、はいゴールです、お疲れさま! というわけにはいかないのですね……。

道のりは長いなあ、厳しいなあ……と涙目になってしまいますが、でも、希望はあります! 段階が進めば進むほど、求道者たる「牧童」から力が抜けていくのがわかるんです。ざっくり言ってしまえば、どんどん「楽」な感じになっていくんですね。各章に添えられた絵を見ていても、山田無文さんの解説を読んでいてもそれは明らかです。

たとえば、第一「尋牛」の段階では、

山へ入れば入るほど、道は細々として心細うなってくる。そこらあたりで道を尋ねようと思っても、人影さえもない。深山幽谷の中へ迷い込んだようなものだ。どっちへ向いていっていいのやら。 (同書41ページより)

と、途方に暮れていたのが、第二「見跡」を経て、第三「見牛」で、

春になってポカポカと温うなり、なごやかに吹く風になびいている柳の糸の先に、ポッと青いものが出てきた。ポッと芽が吹いてきた。その柳の芽の中に仏性があるではないか、牛がおるではないか。この牛をつかまえんというといかん。久遠劫来、無始劫来動かない牛が、そこにホイッと一匹おるわい。 (同書72ページより)

と、なにやら明るいきざしを見出し、さらに第四「得牛」、第五「牧牛」と進んで、第六「騎牛帰家」では、

牛も無心であれば、騎っておる我も無心だ。青い空も無心であれば、雲も無心だ。こうなれば見るもの聞くものすべてが無心だ。無心の心で青空にうそぶき、樵子の歌を歌い、童子の野曲を吹いて、峰の白雲のようにふわりふわりと、何のとらわれもなく、何のかかわりもなく我が家へ帰っていくのである。 (同書119ページより)

と、すっかり自由な心持ちになり、次の第七「忘牛存人」にて、

人生の終点に着いたら求めるものは何もない、遊ぶだけだ。「人も也た閑なり」だ。あってもよしなくてもよし、生きてもよし死んでもよし、嬉しいこともよし悲しいこともよし、降ってもよし照ってもよし。日々是れ好日だ。 (同書131ページより)

と、さらなる自由を味わったら、次の第八「人牛倶忘」で悟った自分をも忘れて無に還り、第九「返本還源」で宇宙の本源と一体となり、最終的には、

こうやってニコリニコリと笑うだけで、心のすさんだ人たちをして、ことごとく人生に光を発見せしめるというのである。奇跡を説くのではない。ただ笑うだけだ。ただ一緒に酒を飲むだけだ。一緒に歌を歌うだけだ。 (同書174ページより)

という第十「入鄽垂手」の境地に至る……。添えられた絵に描かれた布袋さんのような人物の姿には、まったくどこにも力が入っていなくて、すっかりリラックスしていて、その笑顔は、見ているこちらの鬱々とした気分をも吹き飛してしまうほどのパワーに満ちています。

素直に、いいなあ、と思えますよね。自分も、こうありたいなあ、と。

道のりはどんなに遠く思えても、「牛」=「仏性」を求めていくその先に、心の底からの大きな笑顔を浮かべる自分が見えるのなら、ひとつ、楽しんで修行していこうじゃないか、とあらためて決意できます。道に迷いそうになったら、この本に書いてあることに立ち返り、また一から「無ーッ」「無ーッ」とやっていきます!

この本を読み終える頃には、きっと、素晴らしい師との出会いを果たしたような、満たされた気分になれるはず。そして、いま自分の立っている地点がどこで、これからどこに向かっていけば良いのか、おぼろげながらもその道筋が見えてくることでしょう。求道の心強いお供として、『十牛図―禅の悟りにいたる十のプロセス―』とってもオススメですよ。

(小出遥子)

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