2008年8月31日

ある日我が家の赤ちゃんが、ただボーッと立ったまま、それでもなんだかとっても機嫌よさそうにニコニコしていたので、「何してるの?」と聞いてみました。すると、「立っちしてるの!」と元気なお答え。そして今度はしゃがみこみ、「でも、もうヤーエンコ(お座り)しちゃったの!」と言います。
わたしはその答えに衝撃を受けてしまいました。
ただボーッと立っているだけ。何をしているのかと聞かれても、大人だったら「え?別に・・・」となるところです。でも、赤ちゃんにとっては、「立っちしてるの!」。感覚が、ものすごくストレートでシンプルなんですよね。欲求が複雑で、刺激に慣れきっている大人には、なかなか真似できるものではありません。
一事が万事、赤ちゃんはこんな調子。欲求も単純だし、過去も未来もなく、目の前の「今」という時間だけが全てなんです。
もちろん、こんな赤ちゃんのようなピュアな感性のまま現実の大人社会でやっていくのは難しい、というか周囲には大迷惑です。でも一方で、たくさんのことを知り、経験して、ある程度の分別が身についてしまった大人には味わえない世界を生きている赤ちゃんのことが、少し羨ましくも感じられました。

2008年8月10日

始まりましたね、オリンピック。スポーツ音痴のわたしですが、メディアで特集されるくらい注目度の高い種目や選手は、いちおう気にして見ています。
その中でも、昔から個人的に応援しているのは、柔道の谷亮子選手。同い年の上、学生時代に住んでいたマンションがものすごく近所で、わたしがアルバイトしていたお店にもときどき顔を出していたので、一方的にですが、当時から親しみを感じていました。テレビ放送などで見る谷選手は、48キロ級(学生時代は45キロ級)という小柄ながら、顔つきはキリッと引き締まって、体の小ささを感じさせない堂々たる存在感がありますよね。でも、ひとたび胴着を脱いでオフタイムになると、本当に小柄でものすごく華奢で、子犬のような笑顔を見せる、とってもとってもかわいらしい女の子でした。
今回、惜しくも五輪三連覇ならず銅メダルという結果に終わって、正直、もちろん残念ではあります。彼女が三たびの金メダルを獲り、いつものような王者然とした頼もしいコメントを聞かせてくれるのを、すごく期待していましたから。
でも、やっぱり彼女には心からの拍手を送りたいと思います。同い年で、一時は同じ街に暮らし、結婚や出産も同時期に経験した女性同士として、彼女の存在はとてもかっこよく見え、憧れでした。オリンピックという大舞台を終えた彼女に、「お疲れ様、ありがとう」と伝えたいです。
谷選手のほかにも、女子柔道には思い入れがあるんです。結婚前に勤めていた会社は女子柔道が盛んで、同じ部で働いていた人が何人かオリンピックに出場したときは、みんなで仕事を中断して画面の前で応援した思い出もあります。
わたしにとって個人的に大注目の柔道が既に始まっていることで、今年のオリンピックも強い興味を持って見られそうです。
メダルの数に関わらず、そしてどの国の選手ということにもあまりこだわらず、それぞれの選手が競技に臨む真剣な姿に大いに刺激を受けたい、夏バテ中のわたしです・・・。

2008年8月 5日

お盆のお経参りの帰り道、KAKUがデパートのお惣菜屋さんで夕飯のおかずを買ってきてくれることになりました。そのときのKAKUの格好は、着物に間衣(黒い装束)、頭は丸坊主。一目見てお坊さんとわかる装いです。
お芋の煮物と炊き合わせと夏野菜のサラダをレジに預け、隣にあった鱧の煮凝りに手を伸ばしかけた瞬間、「やっぱりお坊さんは野菜ばっかり食べるんですね」と、頭上からの一声。顔を上げると、レジ係のお兄さんが、KAKUの姿と買い物の内容を見比べながら、納得顔のご様子だったとか。KAKUは、鱧の煮凝りに伸ばしかけた手を、思わず湯葉に向かって方向転換させてしまったそうです。
家に帰ってきても、「鱧の煮凝りが食べたかったー。今しか食べられないのにー。」と、名残惜しそうにしていたKAKU。
開祖・親鸞聖人が一早く肉食妻帯を実行した浄土真宗ですが、「お坊さん」という一括りのイメージの中では、やっぱり精進料理ばかり食べていると思われているのでしょうか。そんなイメージを裏切れず、思いがけず買ってきた湯葉のお刺身ですが、お味はとっても美味。湯葉が大好きなわたしにとっては、棚から牡丹餅のご馳走でした。ついでに、翌日の赤ちゃんの朝ごはんにも重宝できて大満足です。

2008年7月27日

昨日ご案内した8月7日の「暗闇ごはん」は、おかげさまで満席となりましたので、予約受付を締め切らせていただきました。
ご希望に添えなかった皆様、本当に申し訳ございません。
通常の「暗闇ごはん」は毎月一回のペースで開催しており、次回は8月末頃を予定しております。
詳しい日時が決定次第、こちら彼岸寺のウェブサイトで告知いたしますので、どうぞその機会にお申し込みくださいませ!

なお、彼岸寺メールマガジン購読にご登録いただきますと、ウェブサイトでの告知に先立って先行予約が可能です。メールマガジン発行時で予約が埋まってしまい、ウェブサイトでの告知に至らない状況が続いておりますので、「暗闇ごはん」に興味をお持ちの方は、メールマガジン購読にご登録をおすすめします。

ご登録はinfo@higan.netまで
※現在、システム上の都合で、自動登録ができなくなっております。お手数ですが、上記アドレスまでご連絡下さいませ。

2008年7月26日

毎回、開催のたびにご好評を頂いている「暗闇ごはん」。このたび日本テレビの番組の取材につき、特別開催いたします。
テレビ取材ということで撮影機材等が入る都合上、雑音その他でご迷惑をおかけすることと存じますので、今回は参加費を頂戴いたしません。番組からの招待というかたちになります。
雑音や、場合によっては途中で多少の明かりが入る可能性、出演者の一部として番組内で放映される可能性をご了承いただける方は、ご家族ご友人をお誘い合わせの上、この機会に是非お申し込みください!

日 時  8月7日(木)17:30集合 18時スタート
会 場  緑泉寺 台東区西浅草1-8-5
      東京メトロ銀座線「田原町」駅下車 徒歩2分
会 費  無料(ご招待)
申込み  人数、「8月7日の回に参加希望」と明記の上、
      michiko@higan.net
      までお申し込みください。


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★「暗闇ごはん」のご案内★

日常では体験することのできない真の暗闇。完全に視覚を奪われた中で、
残された嗅覚、味覚、聴覚、触覚をフル回転させるためには、
ものを食べるという行為が大いに効果的です。
また、お寺という非日常の空間で、顔の見えない相手とひとつの食卓を
共にすることも、「暗闇ごはん」を体験する人の想像力を多分に刺激することでしょう。
お出しする食事はけして豪華なものではありませんが、
暗闇の中でこそ食べて楽しい、食べて驚きのひとときであるよう、
食材や調理にも工夫を凝らしております。

■概略
浅草・緑泉寺で行われている月一度のイベントです。海外で試されている
真っ暗な中で食事をとる「ブラインドレストラン」を、日本の食文化に合わせて
アレンジしてお届けします。
明かりを落とした薄暗闇の部屋でアイマスクを着用していただき、
完全に視覚を奪われた状況を作り出します。
そして、イベントご参加の注意点など簡単な説明のあと、
料理が一品ずつ運ばれます。

2008年7月20日

東京はお盆も無事に終わり、この三連休からいよいよ夏休みですね、世の中は。でも、お寺では何も変わりはありません。土曜日曜に比較的はっきりとした仕事が多いといういうだけで、特に休日というのがないので、ともすると、曜日の感覚も連休の感覚もなくなってしまいます。せいぜいゴミの収集日で曜日を気にするくらいです。
ところで、夕べ寝ているときに、KAKUが隣で寝ていた赤ちゃんに、目の上に思いっきり踵落としを受けて悶絶していました。以前にも、赤ちゃんの投げたテレビのリモコンが眼球を直撃して、眼科のお世話になったことが。今回も、一晩たっても痛みがとれないので、「また病院行きかなぁ」とぼやいています。風邪や頭痛、腹痛なんかでは、ちょっとやそっとでは病院のお世話になることもありませんが、目は自分で治せる気がしないので心配ですよね。
ところが、いつも行く近所の眼科は本日休業。連休なので、もちろん明日もお休みです。
こんなときには、「まったく三連休なんて・・・」と恨めしく思ってしまいます。会社に勤めていた頃は、連休というだけで、たとえ何も予定がなくてもなんとなくウキウキしたものなのに、今は連休どころか土日祝日の高揚感もありません。病院もやっていないし、銀行もやっていないし、連休を利用して訪ねてくれた友人を浅草案内に連れ出しても、休みでどこも混雑しているし、まるでいいことなし。
普段は、だからといってそれほど不便も感じませんが、今回のように、急に病院に行きたい!というときに連休だと困ってしまうんですよね。
でも、往来の人ごみに子供の姿が目立ち、みんなどことなくはしゃいで見える様子は、そう悪くもないものですね。

2008年7月 5日

夫のKAKUは、二、三日に一度のペースで髪を剃っています。そんなハイペースなので、剃りたての青っぽい頭皮にほんの少し髪の毛が顔を出し、それがはっきりと黒に変わった頃、また剃刀をあてるわけで、頭の変化は一目瞭然です。その様子に、わたしはいつも「もったいないなぁ」と思うんです。剃られても剃られても、健気に生えてくる髪の毛。そんなに愚直に生えてくるのは、人体にとって頭髪が必要なものだからで、わたしからすれば、それをわざわざ剃りあげてしまう意味がわかりません。彼にとっては、お坊さんである自分を自覚するために欠かせない行為なのでしょうが、別に髪の毛を剃ったからって、立派なお坊さんになれるわけでもないし、突然さとりがひらけるわけでもないんですから。それよりも、必要に迫られて、あとからあとから生えてくる髪の毛を、ご丁寧に四六時中剃ってなくしてしまうなんて、よほど不毛な行為に思えるんですよね。
まぁ、自分の髪なんだから気のすむようにすればいいと思っているので、普段はそれについて何も言いませんが、こんな季節になり、炎天下にさらされる頭皮を目にするたび、どうも納得のいかない思いがこみ上げるこの頃です。

2008年6月23日

先日、実家に帰省した際、飼っている犬の体調があまりよくないと聞かされました。病院で血液検査をしても異常が見つらず、幸い、そのうちに症状も次第に穏やかになりました。それで、家族の間では、最近新しい犬を飼い始めたせいで、精焦りや寂しさ、嫉妬などで精神的にストレスを抱えてしまったためだろうということに落ち着きました。
でも一瞬は、この犬がもし死んでしまったら・・・という不安を感じました。かなりの大型犬ですので簡単に埋めるわけにもいきませんし、火葬してお骨になったとして、その辺の海や山に捨ててしまうというのも問題がありますし、だからといって納めるお墓に心当たりもありません。家族の心情としては、できれば同じお墓に入りたいくらいにかわいがっていますが、それは現実的ではないですよね。
親戚の家には、過去に飼っていて死んでしまった犬達のお骨が、まだ家の中に置いたままになっています。
また、ある家には、生後間もなく亡くなった子供のお骨が仏壇に置いたままになっているとか。その家ではご主人が分家にあたるためまだお墓がなく、本家のお墓もものすごく遠方で納められないそうです。家族には、「こんな小さな子供の骨なんだから、別にお墓に入れなくなっていい」とか、「もし次の子供ができると、やきもちを焼いてあの世に連れて行こうとするからちゃんと納めないとダメだ」とか、いろんな意見があるようですが、お母さん本人は、やはりどこかちゃんとしたお墓なり納骨堂なりに納めたいというのが本音だそうです。
でも、実際、このあと家族の他の人がお墓に入る予定も早急にはない状態です。そもそも自分達自身は、いざというとき、ちゃんとした葬儀もしてもらわなくてかまわないし、お骨だって海や川に散骨してもらえばいい、くらいの気持ちでいるのに、たしかにこんなに小さな子のお骨を入れるために、わざわざお墓や納骨堂を求めるというのも、経済的にもピンとこない。さて、どうしたものだろう・・・と悩んでいるのだとか。

続きを読む "お墓についてなど。雑記"
2008年6月 8日

友人の結婚パーティにお呼ばれしてきました。
わたしたちが参加したのは二次会だけでしたが、当日行われた挙式の様子も新郎のパソコンに写真がアップされていて、白無垢と羽織袴に身を包んだ、初々しくも厳かな表情で杯を交わす新郎新婦の姿を見せてもらうことができました。
このご両人、挙式は上野・寛永寺で仏前結婚式を行ったとのことでした。袈裟をつけたお坊さんが儀式を執り行う様子は、さすがにKAKUやわたしにとっては見慣れたものですが、集まった多くの参加者にはとても新鮮なようで、みんな興味深そうに見入っていました。

仏前結婚式、やっぱりいいですね。新郎新婦を囲むように両家の親族が並ぶ配置が、わたしはとても気に入っています。結婚が二人だけのものではなく、家と家との結びつきであり、つまり、二人の存在の由縁によってこそ、新しい絆、縁が結ばれたのだということを実感できるんですよね。それに、結婚式という、いやがうえにも緊張を強いられる場面だけれど、親しい顔が回りで見守ってくれるおかげで、なんとなく気持ちがほっとします。

なかなか出会う機会のない仏前結婚式ではありますが、これから結婚をお考えの方には、是非検討してみてほしいと思います。有名な大きいお寺なら、たいてい受け付けてくれますし、菩提寺など、ゆかりのあるお寺に相談なさってもいいと思います。というか、仏壇があれば、自宅でも可能ですよ!

それにしても。わたしも数年前に仏前で結婚式を挙げた身。今回の新郎新婦の様子に、当時の自分を重ねたりもしてみたのですが、いやはや、さすが寛永寺、舞台が違いますね。時代を感じさせる広くて重厚なお堂に、お坊さんの数もなんと5人!わたしたちは雅楽をお願いしたので、その奏者(お坊さん)や、住職の親しい友人(お坊さん)にも参列をお願いしていましたが、それを除けば、式を執行したお坊さんは1人だけ。それもKAKUのおじいちゃん。
さらに、寛永寺は密教系の天台宗なので、お堂の様子も、お坊さんの装束も、浄土真宗であるうちの寺のものとは全然違います。
本当に、「お寺」といっても実に様々なものだなぁと、改めて実感しました。

何はともあれ、新郎新婦、ご結婚おめでとうございます!この日の姿をお互いに忘れず、いつまでもお幸せに。

2008年6月 1日

今日、近所の仏教系幼稚園で行事があり、ちょっと覗いてきました。かわいいですね、子供たちは。我が家の赤ちゃんには幼稚園はまだ先の話ですが、集まった園児達に我が子の未来を重ねて見て、思わず笑みがこぼれました。

さて、その行事での一コマ。園児達が、事前に覚えていたある言葉を一斉に唱えるのですが、それが「これからも、わたしたち仏の子を見守ってください」というものだったんです。
それを聞いた瞬間、思わずゾッとしました。

「仏の子」。
その言葉の持つ強い響きに圧倒されて、身震いさえする思いでした。こんな幼い子供達に、いったいなんてことを言わせるのだろう、これでは洗脳じゃないか、と。
その幼稚園はうちの寺からとても近所なので、我が家の赤ちゃんもいずれ通う可能性が高いのです。ひどい嫌悪感に襲われましたが、よく考えてみれば、まぁ仏教系の幼稚園ならどこでもありえることだし、わたし自身の夫であるKAKUも、おそらくそんなふうに教育されてきたクチでしょう。
右も左もわからないうちから「わたしは仏の子」と刷り込まれたところで、別に大した問題じゃない、すぐにそう思い直しました。

でも、今日一日、頭の片隅にその言葉が焼きついて離れませんでした。
それが、突然わかちゃったんですよね。「仏の子」の意味するところが。

最初にそれを聞いたとき、「何言ってんの、あなたたにちはパパやママがいるでしょう!?」と、本当に思ったんですよ、わたし。でも、それじゃぁそのパパやママは誰の子なのだろう。当然、誰にでも父母があり、その父母にもまた父母があります。でも、人ひとりの存在は、けしてそれだけの単純なものではないんです。
『お寺に嫁いでしまった。』の中でも触れましたが、わたしは長女を出産する前に二度の流産を経験しています。もし、そのときに産めなかった子供たちが無事に産まれていたら、長女は存在しなかった。つまり、この世に生きられなかった命に、我が子は生かされているわけです。
それだけじゃない。出産した病院が違っていたら、里帰りの日にちを変えていたら、あのとき通った道を変えていたら、昨日の夕飯の献立を変えていたら・・・今、この子は生きていないかもしれない。笑っていないかもしれない、泣いていないかもしれない。

我が子が、わたし自身が、そして全ての命が存在し、今まさにそれぞれの時を過ごしている背景には、ものすごい偶然が幾重にも折り重なっているんですよね。その膨大な偶然を、例えば仏教では「縁」と言うのかもしれません。
そして、「仏の子」の意味する「仏」が、すなわち「縁」であるのだと。

無邪気に「わたしたちは仏の子」と言った幼い子供達に対して、「何言ってんの、あなたたにちはパパやママがいるでしょう!?」と本気で訴えていた、あまりにも刹那的な自分に驚いています。
こうやって時間をかけて考えれば、なるほど我が身もまた仏の子なのだと納得できる。逆に言えば、時間をかけてよくよく考察しなければ、それがわからない自分。三十路を過ぎて、子供まで産んでいながら、何もわかっていない自分。

ものの理屈など考えもしない頃から、自分や他の命が生かされている由縁を感覚できるような教育。その表れの一つが、今日のあの場面だったということなのでしょう。頭と図体ばかり育ちきってしまってから仏教に触れ合っているわたしと違い、あの園児達は、しっかりと開いた眼で世の中に出て行くのだろうと思うと、彼らが頼もしく、彼らの担う未来が輝かしく思われるのです。

寺とは縁もゆかりもなかった女の子がお坊さんと恋をして、お寺に嫁ぐ。このケース、実は最近けっこう多いんです。このコーナーでは実際にお寺に嫁いだ寺嫁(てらよめ)の視点から、恋愛・結婚・出産・子育てなど、お寺での生活について現在進行形で体験レポートしていきます。
みちこ
ふつうのOLから思いがけず浅草のお寺に嫁ぐ。子どもと旦那(お坊さん)の世話に追われながらお寺を切り盛りする忙しい日々。