2009年12月17日

「天竺からの合格通知」という記事にも書きましたが、おかげさまでインディアン・スクール・オブ・ビジネスというインドのビジネススクールに合格しました。2010年に入って間もなく、インドへ旅立つ予定です。

これからの準備期間も含め、留学期間中は新ブログ「MBA西遊記~お坊さんならいつかは天竺へ!日本仏教経営改革を目指しインドのビジネススクールに留学する僧侶のブログ~」として更新していくことにします。なるべく多くの方、仏教関係者だけでなくビジネスパーソンの方にも読んでいただきたいと思い、あえてちょっと大げさなタイトルにしましたが、書く中身は今までとそんなに変わりません。むしろこのブログはもっと軽い感じで、今のインドの様子などもお伝えできるよう現地の写真もたくさん入れていきたいと思っています。

一年ほど、家族を引き連れてインド生活を送ることになります。日本人の生徒は他にいない(過去にもいない)学校生活はかなり心細いものがあります。ぜひみなさま、新ブログをお読みいただき応援をよろしくお願いいたします。

2009年11月25日

<自己を知り、世界を知り、世界の中で自分がどのように生きるべきかを知ること>

一歳になった息子は何でも私の真似をする。おかしな仕草をするとその通りに真似しているので、ドキッとする。親の背を見て子は育つというくらい、子どもが育つ上で親の影響は大きい。親の生き方が子どもの将来を左右することも大いにあり得る。私は子どもにおかしな仕草ばかりでなく、人として大事なことを伝えたいと思っている。ひとつだけ選ぶなら、私は息子に「何事であれ真剣に全力で一生懸命取り組むこと」を伝えたい。

私の頭が単純なだけかもしれないが、余計なことに惑わされさえしななければ、人生はけっこうシンプルに生きられるのではないかと思う。いつも今やるべきことを一生懸命にやる、簡単なことだ。就職セミナーのキャッチコピーにそそのかされて、「自分のやりたいことを見つけよう」としては失敗する。諸行無常、変化しないものは何もないというのに、ましてや人の心のように移り変わりやすいものを頼りにモノを考えてはうまくいかない。「私はほんとうは何をしたいのか」などといくら考えたところで答えは出ない。今日やりたいと思っていたことが明日にはコロっと変わるのが人間だ。しかし、「自分のやるべきこと」の軸はそうコロコロと変化するものではない。自己の内面と外的世界に対する総合的な理解と大きな流れをふまえて見いだされた「やるべきこと」に従っていれば、大きく道を踏み外すことは少なくなるだろう。

自己を知り、世界を知り、世界の中で自分がどのように生きるべきかを知ること。およそまともな宗教というのは、そのために役立つ要素を必ず持っている。ただ、そうでなければ、自分に合わないメガネや質の悪いメガネではぼやけて何も見えないか見える範囲が限られているように、できることは限られる。その点、数ある宗教の中でも仏教は特に優れていると思うが、他の宗教だって悪くない。とにかくまず、自分を知ることが大切だ。自分など結局のところ何ものでもないという事実を理解することも含めて、自分を知ることが大切だ。私にとって宗教とはそのための方法論である。その目的に資するのであれば、宗教でなくても構わないと思う。何事であれ真剣に全力で一生懸命取り組んでいれば、自ずと自己を知ることになる。そういう実体験があれば、将来仏教に出逢ったときにその意味がよく分かるようになると思う。

続きを読む "仏教と私"
2009年11月16日

今日は久しぶりに、これまでここで自分が書いた記事を読み返した。今からちょうど一年ほど前に『お寺の美しい経営』という記事の中で「経営を勉強したくなってきた」と書いていた。それから数ヶ月後、それを実行に移すべく、ビジネススクールを受験するためにいったん仕事(お寺)を離れ、故郷の北海道に家族で引っ越しをし、実家にこもって勉強に励んだ。そして今月の初めに、おかげさまで第一志望校から合格通知を受け取ることができ、晴れて受験勉強から解放される身となった。

思い返せばここへ来るまで、なかなか長い道のりだった。お寺の経営についてもっと深く勉強してみたいと思い始めたのが、昨年の前半。しかし、仏教の教義を学べる専門学校や仏教学を研究する大学はあっても、仏教寺院の経営を専門的に学べる学校は存在しない。もう少し広げて、宗教法人の経営を学べる学校があるかと探してみたが、辛うじて世界の宗教組織の歴史的変遷について研究している教授がいるくらいで、現代社会における仏教寺院の経営を具体的に学び実践的なスキルを身につけたい私の目的に合いそうな学校はなかなか見つからない。これはやはり、ビジネススクールしか選択肢はないのかなと思い、MBAホルダーのヘッドハンターの方に相談するなどした結果、1―実践的に経営を学びたければビジネススクールが最適であること、2―組織の経営という点ではビジネスもノンプロフィット(宗教法人含む)も大差ないこと、3―最近のビジネススクールでは営利企業だけでなくソーシャルエンタープライズも重視していること、などからやはりビジネススクールを受験することに決めた。

続きを読む "天竺からの合格通知"
2009年9月21日

世の中のほぼあらゆる出来事について、いくつかの陰謀説が存在する。たとえば、豚インフルエンザは欧米の製薬会社と一部の国の首脳部が結託してワクチンで儲けるために故意に起こしたとか、世界同時多発テロは当時の米国大統領が戦争の口実を作るために自作自演で行ったとか、そもそもこの世界はロスチャイルド家やロックフェラー家など一握りの超大富豪一族によって秘密裏に支配されているとか、世界を牛耳る人はだいたいフリーメイソンだとか、その手の話題はいつの時代にも一定程度の人に受け入れられ支持される。

たいてい、そういう陰謀説は読み物としては面白いのだが、論理が飛躍しすぎて信憑性に欠けるものも少なくない。しかし中には、しっかりした証拠を出しながら真面目に論じられているものもあるので、あながち間違いとは言い切れない話も多かったりする。いずれにせよ、世界には相当にしたたかな人たちがいるもので、ときに「そんなに高い地位にいる人が、そんなにとんでもないことをするはずがない」というようなことを、裏で平気でしかねないのが人間の現実であることは、確かだろう。

続きを読む "仏教徒が悪の陰謀を阻止する"
2009年9月 1日

2009年、与党が自民党から民主党へ、政権交代が現実となりました。日本にとって歴史的な年として後の世にも記憶されることでしょう。

ここ数年、金融危機(未だ進行中)をはじめとして、世界は本当に激動の時期を迎えていると思います。日本の政権交代も、そうした大きな流れのひとつの表れのような気がします。この動きはまだしばらく続くのではないでしょうか。そして、場合によってはさらに激しさを増して、数年後、十数年後には世界の枠組みがすっかり変わってしまっているような、それくらいのインパクトをもたらすのではないかと、そんな予感がしています。本当のところ、いつの時代も「先が見えない」のは同じことですが、「変わらない日々」という当たり前の幻想を持つことも難しいくらい変化の激しい時代に居合わせたことに、人によっては不謹慎と思われるかもしれませんけど、私はどうしてもわくわくしてしまいます。

続きを読む "変化の時は宗教のチャンス"
2009年6月23日

このところ、iPodでビジネススクールの講義をいくつか聞いている。著名な会社の経営者をゲストに迎えて、ビジネススクールの教授が経営に関してインタビューをするというものだ。質問の内容は煎じ詰めればいつも「成功」に関わる事柄なのだが、少し気になることがある。それは、教授はいつもゲストの経営者に向かって「成功するために必要な秘訣を教えてください」と質問するのだが、決して「あなたにとって成功とは何ですか」とは質問しないということ。

もしかしたら、これは愚問なのかもしれない。企業の経営者にとって「成功」とは、「お金を儲けること」に決まっている。もちろん、社会的な評価とか新たな価値の創造とか、お金以外の事柄においても成功は測り得るが、何はなくともお金が儲からなくては会社も自分も存続できない。だから、企業人にとって無条件に「成功=お金儲け」となるのは当然のことだろう。

しかし、それはあくまでも人間社会における便宜的なひとつの尺度に過ぎない。にも関わらず、その尺度を自分の人生にまともに当てはめようとして、大きな間違いを犯してしまう人がずいぶん多いのではないか。「成功するための秘訣」は知りたがるのに「成功とは何か」を知ろうとしない人の頭の中には、「お金を儲ける=何でも好きなものが買えて好きなことができる=幸せである」という幸せの単純な構図が強固に出来上がってしまっているのかもしれない。

しかし、仏教的な見方からすれば、そのような有様では実際に幸せにはなれない。

続きを読む "成功の秘訣とは"
2009年4月28日

つまるところ、問題はこれだ。仏教界と一般社会のすれ違いは、「仏教にはお金には換えられない普遍的な価値がある」という仏教側と、「お金にもならないものに何の価値があるのか」という一般側の決定的な価値観の違いである。

私は仏教側の人間として、仏教に普遍的な価値を見いだすことはできるのだが、その価値を一般側に知らしめるとなれば、巧妙な方法を用いなければ成果は期待できないであろうことを、5年も6年も僧侶をやってみて、最近特に痛感している。

シンプルに考えてみると、まったく価値観の異なる相手に自分の価値観を理解してもらうためには、まず相手の価値観を理解した上で、相手の価値観でも理解できる表現方法で、自分の価値観を示す必要がある。言語の違う人間同士がそれぞれの言語で議論をしてもまったく話にならない。突破口を開くためには、どちらかが相手方の言語を習得して、そちらの言語で意思疎通を図らなくてはならないのだ。要するに、私たちに必要なのは<仏教語>と<一般語>の意思疎通である。

続きを読む "日本仏教起死回生の道"
2009年3月12日

先日、ある雑誌のライターの方とお話しをする機会があり(当方が北海道在住のためSkype動画を経由してだが)、やりとりの中でその方が「社会が変化することを前提とした社会制度の設計というのを、もっと真面目に考えてみてもいいのではないか」と仰っていた。なるほど、制度というものは大抵、少なくとも設計する人が想像できる範囲の普遍性を持つように作られるものだが、その限界を踏まえた上で柔軟に対応できる制度のあり方を考えるのは面白い。

永続することを前提としたせいで無理が来て破綻しかけている制度はたくさんあるが、身近なところでは、日本の年金などはまさにそれだろう。人口推移や経済成長などの社会情勢は「なるべく変動しないもの」とする政治家や官僚の甘い見通しのせいで、さらに社会保険庁のずさんな体質が追い打ちをかけるようにして、不信感の高まりは制度の継続が困難な地点まで来てしまっているようだ。また、日本伝統の年功序列・終身雇用制度も「社会が変化しない」ことを前提とした気の長い制度であったが、今どきこんな昔懐かしいやり方がきちんと機能しているのは公務員か伝統仏教教団くらいのものかもしれない。

続きを読む "仏教界が変わる百年に一度のチャンス"
2008年10月31日

▼経営を勉強したくなってきた

 最近、朝は早起きして1時間ほど散歩することにしている。

 健康のためというのもひとつの理由だが、主な目的はiPodで英語のプログラムを聞くことだ。海外とやりとりしたり情報を集めたりするときに英語を使わざるをえないため、その必要に迫られてということもあるし、また、できれば近い将来に留学をしたいという気持ちがあるので、その準備のためでもある。なんのために留学するのかといえば、事業や組織の経営を学ぶためである。

 なぜ仏教でなく経営なのか。それは、自分自身が今後どのように仏教に携わっていきたいかと考えた時に、在家の仏教徒が守るべきことは守った上で俗人としての日常生活を送りながら、現代においてその本質を保持したまま実践的に仏道を歩んでいる同朋と連携をとりながら、世界に仏教徒の輪をより大きく広めるための活動をしていきたいと考えているからだ。

 なぜ国内でなく海外に留学しなければいけないのかと言えば、自分と同じ文化的・宗教的背景を持った日本人ばかりの環境で学んでいては見えないことが、海外の大学に身を置くことで否応無しに目の前に突きつけられることを期待してである。知識を得るためだけならば、大学など行かなくても本を読めば事は足りるだろう。

 しかし、生身の人間と一緒に過ごすことから得られるさまざまな経験は、私にとって本の知識よりも重要で刺激的だ。仏教に携わる者として、いろんな種類の人種と直接にやりとりすることで養われる感覚は何にも代え難い大事なことだと思う。また、経営という分野で自らのリーダーシップを高めるために世界から集まって来る学生たちとの人的ネットワークは、その後の活動にも活用できるかけがえのない財産となるはずだ。

 私がこんなふうに考えるのも、自分の親が僧侶ではなく経営者であるという影響もあるのかもしれない。そして、伝統仏教教団に身を置く一人として、最近特にその経営力の覚束なさに対して危機感を覚えていることも、要因のひとつである。


▼「浄土真宗の僧侶」であるという矛盾

 ところで、私は「浄土真宗の僧侶」である。ならば、やはり経営ではなく仏教を学ぶべきではないのか?という疑問を持つ方もおられるかもしれない。もちろん、私個人としては、仏教「も」学ぶべきだと思うし、それは生涯をかけて続けていきたい。しかし、ここから話を進めていく上で混乱が起きるといけないので、まずはじめに仏教に携わる上での自分のスタンスを表明しておいたほうがよいかもしれない。

 さて、僧侶というのを辞書で調べると「出家して仏門に入った人」を指すとある。本来、「出家」とは文字通り家庭を出て世俗を離れ、仏教の戒を受けて僧侶となることを意味する。分かりやすく言えば、僧侶というのは「世俗を離れて寺院に入り、僧侶としての戒律を守って仏道に励む人」のことであり、おそらくそれは日本人の多くが「理想的な」僧侶のあり方として抱いているイメージとそう違わないだろう。また、この定義は海外においてもおおよそ通用するのではないかと思う。

 しかし、これを踏まえて改めて考えてみると、「浄土真宗の僧侶」というのは実に不思議な存在である。浄土真宗は「非僧非俗」を実践した親鸞を開祖とする教えであり、戒を持たない。信仰者として与えられる名前は戒名ではなく法名と呼ばれるのが象徴的だ。

 いや、何も、戒を持たない浄土真宗の教義がおかしいと言いたいわけではない。それどころか、戒を守ることのできない一般の在家の人々に仏教徒としてのあり方を示し、信仰的・思想的な背景を与えてくれた功績は非常に大きい。一仏教徒として私自身、その教えが強い支えとなっている。

 しかし、長い時代の流れの中で、浄土真宗という在家仏教徒集団は独自の論理で「僧侶」と「門徒」を生み出した。「非僧非俗」なんだから「僧侶」は必要なさそうなものだが、いつの間にか他宗派と同じような「出家」と「在家」的な区別をかたち上で行うようになったのである。

 建前としては、「僧侶も門徒も区別なく同じ浄土真宗の信仰者としてみ教えを共に喜び合う仲間である」ということを謳っている。確かにそれはそうかもしれないが、「僧侶」と言ってしまうことには様々な矛盾がつきまとう。いかに「非僧非俗」の伝統を引き合いに出して「浄土真宗の僧侶は戒を持たない」ということを自分たちの理屈で主張してみても、それはいわば、社会通念上の「僧侶」という言葉の定義からはかけ離れており、一般に通用するものではない。

 それでも浄土真宗は自分たちの宗派の社会的シェアの高さを武器に、いわば独自規格の「あなたの街のお坊さん」的な僧侶像を宣布する努力を続けてきた結果、戒に厳格であるはずの他の宗派まで同じような方向性に流されていく現象が生まれ、今の日本仏教の姿がある。

続きを読む "お寺の美しい経営"
2008年7月 7日

日本人の宗教に対するイメージは、相変わらず非常にネガティブな位置に留まっているように思われます。「あの人は宗教にはまってるから、あまり近づかないほうがいいよ」とか、「あの人の趣味もあそこまで行くと、もうほとんど宗教だよね」とか、あまり好ましくない場面で使われることが多いですね。

たいていは、誰かが客観的・合理的な判断力を失った状態で何かを盲信する様を指しているわけですが、宗教というものを良く知らずに宗教を馬鹿にしている人ほど、ふだん特別に意識することもないままその堅牢さを盲信している自我というものの基盤がいったん揺らぐと、それこそ宗教の名を冠しただけの拝金主義カルト宗教などに知らず知らずのうちに入り込まれてしまい、結果的に世俗的な価値も宗教的な価値も失って心身共にボロボロになるということがあり得るので、注意して欲しいと思います。

話は変わりますが、皆さんはインドという国に行ったことがありますか?私もそれほど多くの国を知っているわけではありませんが、少ない海外旅行経験の中でもインドという国の持つ雰囲気というのはやはり独特のものでした。「インドに行くと人生観が変わる」とか「インドという国は大好きになるか大嫌いになるか、どちらかだ」とよく言われますが、大地の匂い、人の匂い、立ち上る熱気、雑多な町並み、、、空港に降り立った瞬間から体中の五感を通じてインドが入り込んでくるような、確かにそんな強烈さがあります。

そのインパクトがどれほどのものかは数多あるインド旅行記を読めば感じてもらえるはずなので割愛しますが、私が感動を覚えるのは、インドの人々の宗教に対する姿勢です。世界にはいろいろな宗教があり、国によって信じる宗教も違います。国民のほとんどが一つの宗教を信じている国もあれば、グループに分かれて複数の宗教を信じている国もあります。その点からすればインドはヒンドゥー教が多数派を占める珍しい国ということになるのですけど、私の感じた限りインドの宗教に関して驚くべき点は他にあります。

それは、インドのあちこちに、いったい何の宗教をやっているのだか分からないような宗教家というか修行者のような人がたくさんいることです。そしてそういう人の中には商売のためにやっている人もいる一方で意外と真剣に修行している様子の人もいて、路行く一般の人々から「ああ、あの人は修行者だよ。おれには何の修行だか分かんないけど」みたいな感じでそれなりに尊敬を集めながら飢え死にしない程度に日々を暮らしていけている、ということです。その人が何の宗教宗派に属しているのかは、あまり問題にされていないようでした。何に属しているかではなく、その人自身が何者なのかが問われているように感じました。宗教に対して寛容でありながら、向き合う姿勢は真面目なのですね。

続きを読む "インド人と日本人の宗教観についての雑感"
お寺は日本全国に7万ヵ寺以上存在するといわれますが、その割にはあまり存在感が感じられないのは気のせいでしょうか。こんな時代だからこそ、お寺には日本の伝統や文化を守り育んでいく、大事な役目があると思うんです。彼岸寺の松本が見たり聞いたり感じたりしたことをもとに、「お寺の未来」について書くエッセイです。
松本圭介
法名・釈紹圭(しょうけい)。浄土真宗本願寺派僧侶、布教使。神谷町光明寺所属。1979年、北海道生まれ。東京大学文学部哲学科卒業。代表を務める光明寺仏教青年会は2008年に財団法人全国青少年教化協議会より第32回正力松太郎賞青年奨励賞受賞。インターネット寺院「彼岸寺」の運営。著書に『おぼうさん、はじめました。』 『"こころの静寂"を手に入れる37の方法』など。