▼経営を勉強したくなってきた
最近、朝は早起きして1時間ほど散歩することにしている。
健康のためというのもひとつの理由だが、主な目的はiPodで英語のプログラムを聞くことだ。海外とやりとりしたり情報を集めたりするときに英語を使わざるをえないため、その必要に迫られてということもあるし、また、できれば近い将来に留学をしたいという気持ちがあるので、その準備のためでもある。なんのために留学するのかといえば、事業や組織の経営を学ぶためである。
なぜ仏教でなく経営なのか。それは、自分自身が今後どのように仏教に携わっていきたいかと考えた時に、在家の仏教徒が守るべきことは守った上で俗人としての日常生活を送りながら、現代においてその本質を保持したまま実践的に仏道を歩んでいる同朋と連携をとりながら、世界に仏教徒の輪をより大きく広めるための活動をしていきたいと考えているからだ。
なぜ国内でなく海外に留学しなければいけないのかと言えば、自分と同じ文化的・宗教的背景を持った日本人ばかりの環境で学んでいては見えないことが、海外の大学に身を置くことで否応無しに目の前に突きつけられることを期待してである。知識を得るためだけならば、大学など行かなくても本を読めば事は足りるだろう。
しかし、生身の人間と一緒に過ごすことから得られるさまざまな経験は、私にとって本の知識よりも重要で刺激的だ。仏教に携わる者として、いろんな種類の人種と直接にやりとりすることで養われる感覚は何にも代え難い大事なことだと思う。また、経営という分野で自らのリーダーシップを高めるために世界から集まって来る学生たちとの人的ネットワークは、その後の活動にも活用できるかけがえのない財産となるはずだ。
私がこんなふうに考えるのも、自分の親が僧侶ではなく経営者であるという影響もあるのかもしれない。そして、伝統仏教教団に身を置く一人として、最近特にその経営力の覚束なさに対して危機感を覚えていることも、要因のひとつである。
▼「浄土真宗の僧侶」であるという矛盾
ところで、私は「浄土真宗の僧侶」である。ならば、やはり経営ではなく仏教を学ぶべきではないのか?という疑問を持つ方もおられるかもしれない。もちろん、私個人としては、仏教「も」学ぶべきだと思うし、それは生涯をかけて続けていきたい。しかし、ここから話を進めていく上で混乱が起きるといけないので、まずはじめに仏教に携わる上での自分のスタンスを表明しておいたほうがよいかもしれない。
さて、僧侶というのを辞書で調べると「出家して仏門に入った人」を指すとある。本来、「出家」とは文字通り家庭を出て世俗を離れ、仏教の戒を受けて僧侶となることを意味する。分かりやすく言えば、僧侶というのは「世俗を離れて寺院に入り、僧侶としての戒律を守って仏道に励む人」のことであり、おそらくそれは日本人の多くが「理想的な」僧侶のあり方として抱いているイメージとそう違わないだろう。また、この定義は海外においてもおおよそ通用するのではないかと思う。
しかし、これを踏まえて改めて考えてみると、「浄土真宗の僧侶」というのは実に不思議な存在である。浄土真宗は「非僧非俗」を実践した親鸞を開祖とする教えであり、戒を持たない。信仰者として与えられる名前は戒名ではなく法名と呼ばれるのが象徴的だ。
いや、何も、戒を持たない浄土真宗の教義がおかしいと言いたいわけではない。それどころか、戒を守ることのできない一般の在家の人々に仏教徒としてのあり方を示し、信仰的・思想的な背景を与えてくれた功績は非常に大きい。一仏教徒として私自身、その教えが強い支えとなっている。
しかし、長い時代の流れの中で、浄土真宗という在家仏教徒集団は独自の論理で「僧侶」と「門徒」を生み出した。「非僧非俗」なんだから「僧侶」は必要なさそうなものだが、いつの間にか他宗派と同じような「出家」と「在家」的な区別をかたち上で行うようになったのである。
建前としては、「僧侶も門徒も区別なく同じ浄土真宗の信仰者としてみ教えを共に喜び合う仲間である」ということを謳っている。確かにそれはそうかもしれないが、「僧侶」と言ってしまうことには様々な矛盾がつきまとう。いかに「非僧非俗」の伝統を引き合いに出して「浄土真宗の僧侶は戒を持たない」ということを自分たちの理屈で主張してみても、それはいわば、社会通念上の「僧侶」という言葉の定義からはかけ離れており、一般に通用するものではない。
それでも浄土真宗は自分たちの宗派の社会的シェアの高さを武器に、いわば独自規格の「あなたの街のお坊さん」的な僧侶像を宣布する努力を続けてきた結果、戒に厳格であるはずの他の宗派まで同じような方向性に流されていく現象が生まれ、今の日本仏教の姿がある。
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"お寺の美しい経営"