2008年7月 7日

日本人の宗教に対するイメージは、相変わらず非常にネガティブな位置に留まっているように思われます。「あの人は宗教にはまってるから、あまり近づかないほうがいいよ」とか、「あの人の趣味もあそこまで行くと、もうほとんど宗教だよね」とか、あまり好ましくない場面で使われることが多いですね。

たいていは、誰かが客観的・合理的な判断力を失った状態で何かを盲信する様を指しているわけですが、宗教というものを良く知らずに宗教を馬鹿にしている人ほど、ふだん特別に意識することもないままその堅牢さを盲信している自我というものの基盤がいったん揺らぐと、それこそ宗教の名を冠しただけの拝金主義カルト宗教などに知らず知らずのうちに入り込まれてしまい、結果的に世俗的な価値も宗教的な価値も失って心身共にボロボロになるということがあり得るので、注意して欲しいと思います。

話は変わりますが、皆さんはインドという国に行ったことがありますか?私もそれほど多くの国を知っているわけではありませんが、少ない海外旅行経験の中でもインドという国の持つ雰囲気というのはやはり独特のものでした。「インドに行くと人生観が変わる」とか「インドという国は大好きになるか大嫌いになるか、どちらかだ」とよく言われますが、大地の匂い、人の匂い、立ち上る熱気、雑多な町並み、、、空港に降り立った瞬間から体中の五感を通じてインドが入り込んでくるような、確かにそんな強烈さがあります。

そのインパクトがどれほどのものかは数多あるインド旅行記を読めば感じてもらえるはずなので割愛しますが、私が感動を覚えるのは、インドの人々の宗教に対する姿勢です。世界にはいろいろな宗教があり、国によって信じる宗教も違います。国民のほとんどが一つの宗教を信じている国もあれば、グループに分かれて複数の宗教を信じている国もあります。その点からすればインドはヒンドゥー教が多数派を占める珍しい国ということになるのですけど、私の感じた限りインドの宗教に関して驚くべき点は他にあります。

それは、インドのあちこちに、いったい何の宗教をやっているのだか分からないような宗教家というか修行者のような人がたくさんいることです。そしてそういう人の中には商売のためにやっている人もいる一方で意外と真剣に修行している様子の人もいて、路行く一般の人々から「ああ、あの人は修行者だよ。おれには何の修行だか分かんないけど」みたいな感じでそれなりに尊敬を集めながら飢え死にしない程度に日々を暮らしていけている、ということです。その人が何の宗教宗派に属しているのかは、あまり問題にされていないようでした。何に属しているかではなく、その人自身が何者なのかが問われているように感じました。宗教に対して寛容でありながら、向き合う姿勢は真面目なのですね。

続きを読む "インド人と日本人の宗教観についての雑感"
2008年6月27日

皆さんの小学校や中学校時代、時間割の中に「道徳」という科目はありましたか?私の場合は北海道の田舎の公立学校でしたが、たしか「道徳」は週に一時間だけ割り当てられていて、NHKのテレビ番組を見せられたりジャンボカボチャの栽培をさせられたり、担任の先生の趣味によって内容を決められている感じで、なんだか先生自身もその時間を持て余しているというか、学校としての統一的な方針が感じられない消化試合的な科目だった記憶があります。「道徳」の授業ですら道徳を学ぶ機会としてはほとんど活かされていなかったので、宗教などは小中学校でまったく触れる機会がありませんでした。

さて、昨今の日本で起こる様々な事件をニュースなどで見聞きして得た印象から「日本人の心が荒廃している」と感じておられる識者の方々が、教育基本法の改正にあたって「日本人のこころが失われたのは、見えないものを敬い大切にする宗教的感性が失われたからだ。これからは宗教教育にもっと力を入れていかなければいけない」という議論をときどきされているようです。そういった教育の大切さは私も強く感じるのですが、実際これまでそのことの重要性について多くの人が指摘してきたにも関わらず、今のところそれが一向にうまくいきそうもないのは、もしかしたら皆さんが考えるやり方に問題があるのかもしれません。

続きを読む "宗教リテラシー教育のすすめ"
2008年6月22日

この彼岸寺というサイトを運営していると、多くの機会に「あなたたちの活動の目的は何ですか?」ということを聞かれます。
今日はその質問について答えながら、私たち彼岸寺の仕事とその限界について、あくまでも私の視点からですが、自己分析的に迫ってみます。

活動のコンセプトについて

私たちは「超宗派仏教徒によるインターネット寺院」というキャッチコピーのもと、僧侶をはじめ宗派を超えた仏教徒が集まって運営するインターネット・メディアであり、いわば仏教系インディペンデント・メディアとして世界中の人に対し、「今の」そして「本物の」仏教に広く親しんでもらうため、特定の宗派の情報に偏らず仏教に関するあらゆる質と鮮度の高い情報をコンスタントに提供し続けることを目的としています。

サイトコンセプトは、このように結んでいます。「こりかたまった仏教をときほぐし、今に生きる仏教へと再編集する、まったく新しいメディアです。彼岸寺を通じて世界中のみなさんに、すてきなご縁を結んでいただければ、とてもうれしいです。」文字通り世界中のみなさんに情報を届けるべく、現在、英語版のサイトも準備中です。

続きを読む "私たち彼岸寺の仕事とその限界について"
2008年6月 4日

宗教について質問すると「特に信じている宗教はありません」と答える多くの日本人のことを、外国人が奇異に感じたり人間性に疑問を抱くというのはよく聞く話です。ちょうど最近、日本人の宗教観に関するアンケート記事が読売新聞に掲載されていたので、そこから少し考えてみたいと思います。


読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることがわかった。

ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れた。また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。

多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いようだ。

この結果によれば、何はともあれ日本人は先祖を敬う民族であるということが分かります。何か特定の宗教を信じている人が3割を切っているにも関わらず、お寺や神社が昔ながらのやり方で今でもなんとかやって来られたのは、実情、誰しも個人としては特に宗旨は何でもいいかあるいは必要ないくらいに思っているのだけど、先祖代々受け継いだものは尊重しなければご先祖様に申し訳が立たないので、決められた宗旨で法事や神事を先祖供養のために慎ましく執り行っているに過ぎないのではないでしょうか。「○○を大切にしないと後で大変なことが起こる」「○○をしっかり供養すれば良い方向に物事が進む」というのは不安煽動型宗教の原始的なあり方ですが、この「○○」の部分に「神」を入れようが「仏」を入れようが「先祖」を入れようが形式としてはどれも同じことで、そういう意味ではやはり日本人の先祖崇拝も宗教的感覚の一種とみなすことができるでしょう。

続きを読む "日本人が無宗教と言いながら先祖供養をする理由"
2008年5月 1日

先日、とあるお寺が主催する仏教の研究会に出席してきました。お坊さんが寄り集まって開かれる勉強会はたくさんありますが、一ヵ寺であれだけの人材を集めて場所を整え研究紀要まで出しているところはなかなか他にはないのではないかと思います。

もっとも、各宗派がそれぞれ備える大きな研究所には大勢の人材と立派な施設が揃っていますが、大きな宗派というのは総じてあまり研究者を大事にしない傾向があるようで、「ある研究所では、待遇があまりにもひどくて研究員が皆退職してしまったのに、待遇のよい事務員だけが仕事に残っているのだが、研究員のいない研究所で彼らはいったい何の仕事をしているのだろうか」という笑い話も聞かれるくらいです。「仏教教団の研究所っていうのは、宗派の偉いお坊さんたちが一般人から難しいことを聞かれたとき、自分たちが答えられなくて恥をかかないようにするために、代わりに答える人として置かれているだけなんだよ」というとある研究者の言葉に、妙な説得力があります。

続きを読む "仏教界の研究事情"
2008年4月21日

結婚して部屋が手狭になったので、ここのところ時間があるときに物件探しをしています。

東京には数万単位で数え切れないほどの物件があり、物件情報を見ながら「もしここに住んだらどんな暮らしが待っているのだろう」と想像を膨らませるだけで、そう飽きることはありません。

中でも特に面白いのは、築年数のかなり経っている古めの物件。

最近の新築物件では良くも悪くも考えられないような変わった条件のものが安い家賃で見つかると、「どうだ、この条件を呑めるか?」と貸し主さんに勝負を挑まれているような気がして、借りる側としても「よし、その間取りなら、こういう使い方で対抗してやる」なんていう闘志を燃やしてしまうのです。

続きを読む "建物と人間の営みの調和"
2008年2月11日

最近、自分の信仰について語り合ったことがありますか?
と聞かれたら、恐らく多くの人が「ありません」と、
そして
「最近どころかそんなことこれまで一度もありませんよ」と
答えるのではないだろうか。

かくいう自分も、
5年ほど前に仏教界を志してから2〜3年の間、
僧侶になるための得度研修や住職課程などで
仲間たちと仏教について寺院について僧侶について、
そして何よりも社会生活の中での自分自身の信仰について
いろいろと語り合った時期が懐かしく思い出されるほど、
ここ最近はそういう話をしていないことに気付く。

研修の場に出て来る人などは
自分がこれから僧侶として社会の中でやっていく上で
自分自身の信仰について真剣に向き合わなければ
ならないだろう(さすがにまずいだろう)
という意識があるだけまだ良いが、
おそらく日本の全僧侶の何パーセントかは
そのような種類のことにまったく意識を持つことなく
世襲の流れの中だけでお坊さんをやっておられる方々も
おられるのではないだろうか。


ある程度の歳をとってから縁あって得度したという
年配のお坊さんから聞いた話だが、
自分が得度したばかりの頃に
代々住職を勤めておられる家系のお坊さんに、
「あなたはどのような信仰をもって
 僧侶をやっておられるのか」
と質問したところ、
「私にとって自分が僧侶であるということは、
 家族も檀家さんも納得している流れのことであり、
 まったく違和感がない」
という答えが返ってきて、愕然としたという。

おそらく質問を受けたお坊さんにしてみれば、
心構えもなにも、現状のようにやっているだけで
何も不都合はないのだからこれでいいじゃないか、
ということだったんだと思う。
確かに僧侶としてまったく違和感なく雲の流れのように
この世の中を軽々と自然に過ごしていけたら
素晴らしいことではあるのだが。

とにかく、お坊さんという職業に就いて
ある程度ふつうにやれるようになってくると、
だんだん自分の信仰について真剣に語り合う場が
少なくなってくるということは確かだ。

続きを読む "お寺で仏とコミュニケーション"
2007年12月10日

大学卒業後、新卒でお坊さんになってから今年で5年目になる。一般企業であればそろそろ主任とか係長とか何かしらの小さな肩書きがついて、若手のリーダーとして仕事にも脂が乗ってくる頃だろうか。自分の場合は2〜3年前に住職から「執事」という肩書きをもらい、光明寺の僧侶として、また浄土真宗本願寺派の僧侶として、今ではそれなりにお寺での日々をつつがなく過ごせるようになってきた。はじめは股の間がスースーして気持ちの悪かった法衣も今では自然に着ることができるようになったし、お寺でなされる数々の行事や相談事もよほど特別な案件でなければ戸惑わずに対応できる。職業としての僧侶であることにおいては、それなりの自信がついてきたと言っていい。

お坊さんになったばかりの頃、「坊さんは職業じゃねぇ、生き様だ!」なんて青臭い言葉をブログに書き、それが拙著『おぼうさん、はじめました。』の帯のコピーにもなった。とはいっても私もそれほど純真無垢な男ではないので「そうは言っても職業の部分もあるんだけどね」という対句も心の底には常にあった。ただ、生き様としての側面を忘れてはいけないという自戒の意味を込めて、敢えて青臭い理想を前面に出して残しておこうと思ったのだ。しかし、今となってはこの言葉も少し気恥ずかしい、どこか違和感のあるものとなってしまった。これを今の気分でいい直すとしたら、「おれは職業じゃねぇ、生き様だ!」そして「そうは言っても職業の部分もあるんだけどね」というところか。

続きを読む "僧侶の代わりに僧侶のような格好をして"
2007年10月 5日

 「お寺の未来」というタイトルでコラムを書いているのはいいのだけれど、日増しに強まる閉塞感に、どうにも明るい未来が見いだせない。「やっぱり未来は真っ暗でした」という結論もなくはないが、せっかくお寺の未来を明るくしたいと思ってお坊さんになったのに、それでは元も子もないというもの。困った。

 と、そのとき親しい新聞社の方から「築地の近くに来てるんだけど、ラーメンでも食べない?」と誘われ、一緒に昼飯へ。大手新聞社で長年にわたって記者をやってきたその方は今、新聞社の内部の改革に取り組んでいるという。新聞業界を取り巻く問題点やその解決策、またそれに対する抵抗勢力の話などをしているうちに、「あれ、新聞業界と仏教界って、構造が似てるかもね?」と気が付いた。大手の新聞社も「今変わらなければ未来はない」と、必死でがんばっている(がんばろうとしている)のだ。
 考えてみれば、どんな業界だって努力もなしにバラ色の未来が待っているなんてことはありえない。これまでお寺がさほどの努力もなしに(少なくとも努力してなさそうに)やってこられたのは、偉大な祖師方や先祖方の計り知れない努力によって耕されてきた教えが実を結び続けてきたからであって、それを手入れもせず野方図に貪り続けた結果、蓄えはすっかり底をついてしまった。
 しかし考えようによっては、これまでがあまりに恵まれ過ぎていただけで、今まさに他の業界と同じようにお寺の努力が試される時代が来たとも言える。どこの業界だって、時代の荒波に取り残されないように必死に頑張っているのだ。それならば、時代のニーズを的確に捉えるだけでなく、さらにそのニーズをよりよい方向へと導いて行くべき仏教が頑張らなくてどうする。今日は新聞業界と問題点や解決策を共有しながら、未来を模索してみよう。

続きを読む "仏教界と新聞業界"
2007年9月29日

最近、ぼくが気に入っていることわざは「船頭(せんどう)多くして船(ふね)山(やま)に登る」だ。船を指揮する船頭さんが何人もいると、船は統制をとれなくなっておかしな方向に進んでしまうという意味である。なるほどなと納得させられることわざなのだが、ふと気になるのはなぜ「山に登る」のかということ。「進まず」とか「沈没す」とかでも良さそうなものだが、船頭の多い船は「山に登る」とされているのだ。ひとりで停滞・沈没するだけなら迷惑もかからないのだが、それぞれの船頭が善かれと思ってまわりを巻き込み行く先が、想像もつかないようなあきれた到着点に辿り着くという皮肉が込められているのだろう。

このことわざ、仏教界に当てはめてみるとまた面白い。たとえば浄土真宗では阿弥陀如来の願いが「船」にたとえられるが、浄土真宗を信仰する人を船の乗客とするならば、そのリーダーとされる住職は船頭と言えるだろう。その船頭たちの中でも船頭の上に立ちたいと思う船頭が集まって、船頭の山並を築いていく。それぞれの地域の小さなお寺がひとつの山だとすれば、それぞれの山を背負いつつ京都の本山へ集まってくる住職たちの群れは、さながらボスの中のボスを決める猿山コンテストのようでもある。それは言い過ぎかもしれないが、そんなにはずれてもいないと思う。

続きを読む "船頭多くして船山に登る"
お寺は日本全国に7万ヵ寺以上存在するといわれますが、その割にはあまり存在感が感じられないのは私の気のせいでしょうか?情報化とグローバリゼーションが進む時代だからこそ、お寺には日本の伝統や文化を守り育んでいく、大事な役目があると思うんです。彼岸寺の松本が見たり聞いたり感じたりしたことをもとに、「お寺の未来」についてつらつらと書きます。エッセイですので不正確な表記やおおげさな表現が出てくるかもしれませんが、どうぞご了承ください(誤り等あれば修正しますので、ご指摘いただければ幸いです)。
松本圭介
僧侶 法名・釈紹圭(しょうけい)。浄土真宗本願寺派僧侶、布教使。東京・神谷町光明寺所属。1979年生まれ。東京大学文学部哲学科卒業後、仏教界のトビラを叩く。超宗派の僧侶達が集うブログサイト「彼岸寺」を設立し、お寺の音楽会「誰そ彼」や、寺院内カフェ「ツナガルオテラ 神谷町オープンテラス」を企画している。著書に『おぼうさん、はじめました。』(2005年12月刊行)