2009年6月23日

このところ、iPodでビジネススクールの講義をいくつか聞いている。著名な会社の経営者をゲストに迎えて、ビジネススクールの教授が経営に関してインタビューをするというものだ。質問の内容は煎じ詰めればいつも「成功」に関わる事柄なのだが、少し気になることがある。それは、教授はいつもゲストの経営者に向かって「成功するために必要な秘訣を教えてください」と質問するのだが、決して「あなたにとって成功とは何ですか」とは質問しないということ。

もしかしたら、これは愚問なのかもしれない。企業の経営者にとって「成功」とは、「お金を儲けること」に決まっている。もちろん、社会的な評価とか新たな価値の創造とか、お金以外の事柄においても成功は測り得るが、何はなくともお金が儲からなくては会社も自分も存続できない。だから、企業人にとって無条件に「成功=お金儲け」となるのは当然のことだろう。

しかし、それはあくまでも人間社会における便宜的なひとつの尺度に過ぎない。にも関わらず、その尺度を自分の人生にまともに当てはめようとして、大きな間違いを犯してしまう人がずいぶん多いのではないか。「成功するための秘訣」は知りたがるのに「成功とは何か」を知ろうとしない人の頭の中には、「お金を儲ける=何でも好きなものが買えて好きなことができる=幸せである」という幸せの単純な構図が強固に出来上がってしまっているのかもしれない。

しかし、仏教的な見方からすれば、そのような有様では実際に幸せにはなれない。

続きを読む "成功の秘訣とは"
2009年4月28日

つまるところ、問題はこれだ。仏教界と一般社会のすれ違いは、「仏教にはお金には換えられない普遍的な価値がある」という仏教側と、「お金にもならないものに何の価値があるのか」という一般側の決定的な価値観の違いである。

私は仏教側の人間として、仏教に普遍的な価値を見いだすことはできるのだが、その価値を一般側に知らしめるとなれば、巧妙な方法を用いなければ成果は期待できないであろうことを、5年も6年も僧侶をやってみて、最近特に痛感している。

シンプルに考えてみると、まったく価値観の異なる相手に自分の価値観を理解してもらうためには、まず相手の価値観を理解した上で、相手の価値観でも理解できる表現方法で、自分の価値観を示す必要がある。言語の違う人間同士がそれぞれの言語で議論をしてもまったく話にならない。突破口を開くためには、どちらかが相手方の言語を習得して、そちらの言語で意思疎通を図らなくてはならないのだ。要するに、私たちに必要なのは<仏教語>と<一般語>の意思疎通である。

続きを読む "日本仏教起死回生の道"
2009年3月12日

先日、ある雑誌のライターの方とお話しをする機会があり(当方が北海道在住のためSkype動画を経由してだが)、やりとりの中でその方が「社会が変化することを前提とした社会制度の設計というのを、もっと真面目に考えてみてもいいのではないか」と仰っていた。なるほど、制度というものは大抵、少なくとも設計する人が想像できる範囲の普遍性を持つように作られるものだが、その限界を踏まえた上で柔軟に対応できる制度のあり方を考えるのは面白い。

永続することを前提としたせいで無理が来て破綻しかけている制度はたくさんあるが、身近なところでは、日本の年金などはまさにそれだろう。人口推移や経済成長などの社会情勢は「なるべく変動しないもの」とする政治家や官僚の甘い見通しのせいで、さらに社会保険庁のずさんな体質が追い打ちをかけるようにして、不信感の高まりは制度の継続が困難な地点まで来てしまっているようだ。また、日本伝統の年功序列・終身雇用制度も「社会が変化しない」ことを前提とした気の長い制度であったが、今どきこんな昔懐かしいやり方がきちんと機能しているのは公務員か伝統仏教教団くらいのものかもしれない。

続きを読む "仏教界が変わる百年に一度のチャンス"
2008年10月31日

▼経営を勉強したくなってきた

 最近、朝は早起きして1時間ほど散歩することにしている。

 健康のためというのもひとつの理由だが、主な目的はiPodで英語のプログラムを聞くことだ。海外とやりとりしたり情報を集めたりするときに英語を使わざるをえないため、その必要に迫られてということもあるし、また、できれば近い将来に留学をしたいという気持ちがあるので、その準備のためでもある。なんのために留学するのかといえば、事業や組織の経営を学ぶためである。

 なぜ仏教でなく経営なのか。それは、自分自身が今後どのように仏教に携わっていきたいかと考えた時に、在家の仏教徒が守るべきことは守った上で俗人としての日常生活を送りながら、現代においてその本質を保持したまま実践的に仏道を歩んでいる同朋と連携をとりながら、世界に仏教徒の輪をより大きく広めるための活動をしていきたいと考えているからだ。

 なぜ国内でなく海外に留学しなければいけないのかと言えば、自分と同じ文化的・宗教的背景を持った日本人ばかりの環境で学んでいては見えないことが、海外の大学に身を置くことで否応無しに目の前に突きつけられることを期待してである。知識を得るためだけならば、大学など行かなくても本を読めば事は足りるだろう。

 しかし、生身の人間と一緒に過ごすことから得られるさまざまな経験は、私にとって本の知識よりも重要で刺激的だ。仏教に携わる者として、いろんな種類の人種と直接にやりとりすることで養われる感覚は何にも代え難い大事なことだと思う。また、経営という分野で自らのリーダーシップを高めるために世界から集まって来る学生たちとの人的ネットワークは、その後の活動にも活用できるかけがえのない財産となるはずだ。

 私がこんなふうに考えるのも、自分の親が僧侶ではなく経営者であるという影響もあるのかもしれない。そして、伝統仏教教団に身を置く一人として、最近特にその経営力の覚束なさに対して危機感を覚えていることも、要因のひとつである。


▼「浄土真宗の僧侶」であるという矛盾

 ところで、私は「浄土真宗の僧侶」である。ならば、やはり経営ではなく仏教を学ぶべきではないのか?という疑問を持つ方もおられるかもしれない。もちろん、私個人としては、仏教「も」学ぶべきだと思うし、それは生涯をかけて続けていきたい。しかし、ここから話を進めていく上で混乱が起きるといけないので、まずはじめに仏教に携わる上での自分のスタンスを表明しておいたほうがよいかもしれない。

 さて、僧侶というのを辞書で調べると「出家して仏門に入った人」を指すとある。本来、「出家」とは文字通り家庭を出て世俗を離れ、仏教の戒を受けて僧侶となることを意味する。分かりやすく言えば、僧侶というのは「世俗を離れて寺院に入り、僧侶としての戒律を守って仏道に励む人」のことであり、おそらくそれは日本人の多くが「理想的な」僧侶のあり方として抱いているイメージとそう違わないだろう。また、この定義は海外においてもおおよそ通用するのではないかと思う。

 しかし、これを踏まえて改めて考えてみると、「浄土真宗の僧侶」というのは実に不思議な存在である。浄土真宗は「非僧非俗」を実践した親鸞を開祖とする教えであり、戒を持たない。信仰者として与えられる名前は戒名ではなく法名と呼ばれるのが象徴的だ。

 いや、何も、戒を持たない浄土真宗の教義がおかしいと言いたいわけではない。それどころか、戒を守ることのできない一般の在家の人々に仏教徒としてのあり方を示し、信仰的・思想的な背景を与えてくれた功績は非常に大きい。一仏教徒として私自身、その教えが強い支えとなっている。

 しかし、長い時代の流れの中で、浄土真宗という在家仏教徒集団は独自の論理で「僧侶」と「門徒」を生み出した。「非僧非俗」なんだから「僧侶」は必要なさそうなものだが、いつの間にか他宗派と同じような「出家」と「在家」的な区別をかたち上で行うようになったのである。

 建前としては、「僧侶も門徒も区別なく同じ浄土真宗の信仰者としてみ教えを共に喜び合う仲間である」ということを謳っている。確かにそれはそうかもしれないが、「僧侶」と言ってしまうことには様々な矛盾がつきまとう。いかに「非僧非俗」の伝統を引き合いに出して「浄土真宗の僧侶は戒を持たない」ということを自分たちの理屈で主張してみても、それはいわば、社会通念上の「僧侶」という言葉の定義からはかけ離れており、一般に通用するものではない。

 それでも浄土真宗は自分たちの宗派の社会的シェアの高さを武器に、いわば独自規格の「あなたの街のお坊さん」的な僧侶像を宣布する努力を続けてきた結果、戒に厳格であるはずの他の宗派まで同じような方向性に流されていく現象が生まれ、今の日本仏教の姿がある。

続きを読む "お寺の美しい経営"
2008年7月 7日

日本人の宗教に対するイメージは、相変わらず非常にネガティブな位置に留まっているように思われます。「あの人は宗教にはまってるから、あまり近づかないほうがいいよ」とか、「あの人の趣味もあそこまで行くと、もうほとんど宗教だよね」とか、あまり好ましくない場面で使われることが多いですね。

たいていは、誰かが客観的・合理的な判断力を失った状態で何かを盲信する様を指しているわけですが、宗教というものを良く知らずに宗教を馬鹿にしている人ほど、ふだん特別に意識することもないままその堅牢さを盲信している自我というものの基盤がいったん揺らぐと、それこそ宗教の名を冠しただけの拝金主義カルト宗教などに知らず知らずのうちに入り込まれてしまい、結果的に世俗的な価値も宗教的な価値も失って心身共にボロボロになるということがあり得るので、注意して欲しいと思います。

話は変わりますが、皆さんはインドという国に行ったことがありますか?私もそれほど多くの国を知っているわけではありませんが、少ない海外旅行経験の中でもインドという国の持つ雰囲気というのはやはり独特のものでした。「インドに行くと人生観が変わる」とか「インドという国は大好きになるか大嫌いになるか、どちらかだ」とよく言われますが、大地の匂い、人の匂い、立ち上る熱気、雑多な町並み、、、空港に降り立った瞬間から体中の五感を通じてインドが入り込んでくるような、確かにそんな強烈さがあります。

そのインパクトがどれほどのものかは数多あるインド旅行記を読めば感じてもらえるはずなので割愛しますが、私が感動を覚えるのは、インドの人々の宗教に対する姿勢です。世界にはいろいろな宗教があり、国によって信じる宗教も違います。国民のほとんどが一つの宗教を信じている国もあれば、グループに分かれて複数の宗教を信じている国もあります。その点からすればインドはヒンドゥー教が多数派を占める珍しい国ということになるのですけど、私の感じた限りインドの宗教に関して驚くべき点は他にあります。

それは、インドのあちこちに、いったい何の宗教をやっているのだか分からないような宗教家というか修行者のような人がたくさんいることです。そしてそういう人の中には商売のためにやっている人もいる一方で意外と真剣に修行している様子の人もいて、路行く一般の人々から「ああ、あの人は修行者だよ。おれには何の修行だか分かんないけど」みたいな感じでそれなりに尊敬を集めながら飢え死にしない程度に日々を暮らしていけている、ということです。その人が何の宗教宗派に属しているのかは、あまり問題にされていないようでした。何に属しているかではなく、その人自身が何者なのかが問われているように感じました。宗教に対して寛容でありながら、向き合う姿勢は真面目なのですね。

続きを読む "インド人と日本人の宗教観についての雑感"
2008年6月27日

皆さんの小学校や中学校時代、時間割の中に「道徳」という科目はありましたか?私の場合は北海道の田舎の公立学校でしたが、たしか「道徳」は週に一時間だけ割り当てられていて、NHKのテレビ番組を見せられたりジャンボカボチャの栽培をさせられたり、担任の先生の趣味によって内容を決められている感じで、なんだか先生自身もその時間を持て余しているというか、学校としての統一的な方針が感じられない消化試合的な科目だった記憶があります。「道徳」の授業ですら道徳を学ぶ機会としてはほとんど活かされていなかったので、宗教などは小中学校でまったく触れる機会がありませんでした。

さて、昨今の日本で起こる様々な事件をニュースなどで見聞きして得た印象から「日本人の心が荒廃している」と感じておられる識者の方々が、教育基本法の改正にあたって「日本人のこころが失われたのは、見えないものを敬い大切にする宗教的感性が失われたからだ。これからは宗教教育にもっと力を入れていかなければいけない」という議論をときどきされているようです。そういった教育の大切さは私も強く感じるのですが、実際これまでそのことの重要性について多くの人が指摘してきたにも関わらず、今のところそれが一向にうまくいきそうもないのは、もしかしたら皆さんが考えるやり方に問題があるのかもしれません。

続きを読む "宗教リテラシー教育のすすめ"
2008年6月22日

この彼岸寺というサイトを運営していると、多くの機会に「あなたたちの活動の目的は何ですか?」ということを聞かれます。
今日はその質問について答えながら、私たち彼岸寺の仕事とその限界について、あくまでも私の視点からですが、自己分析的に迫ってみます。

活動のコンセプトについて

私たちは「超宗派仏教徒によるインターネット寺院」というキャッチコピーのもと、僧侶をはじめ宗派を超えた仏教徒が集まって運営するインターネット・メディアであり、いわば仏教系インディペンデント・メディアとして世界中の人に対し、「今の」そして「本物の」仏教に広く親しんでもらうため、特定の宗派の情報に偏らず仏教に関するあらゆる質と鮮度の高い情報をコンスタントに提供し続けることを目的としています。

サイトコンセプトは、このように結んでいます。「こりかたまった仏教をときほぐし、今に生きる仏教へと再編集する、まったく新しいメディアです。彼岸寺を通じて世界中のみなさんに、すてきなご縁を結んでいただければ、とてもうれしいです。」文字通り世界中のみなさんに情報を届けるべく、現在、英語版のサイトも準備中です。

続きを読む "私たち彼岸寺の仕事とその限界について"
2008年6月 4日

宗教について質問すると「特に信じている宗教はありません」と答える多くの日本人のことを、外国人が奇異に感じたり人間性に疑問を抱くというのはよく聞く話です。ちょうど最近、日本人の宗教観に関するアンケート記事が読売新聞に掲載されていたので、そこから少し考えてみたいと思います。


読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることがわかった。

ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れた。また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。

多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いようだ。

この結果によれば、何はともあれ日本人は先祖を敬う民族であるということが分かります。何か特定の宗教を信じている人が3割を切っているにも関わらず、お寺や神社が昔ながらのやり方で今でもなんとかやって来られたのは、実情、誰しも個人としては特に宗旨は何でもいいかあるいは必要ないくらいに思っているのだけど、先祖代々受け継いだものは尊重しなければご先祖様に申し訳が立たないので、決められた宗旨で法事や神事を先祖供養のために慎ましく執り行っているに過ぎないのではないでしょうか。「○○を大切にしないと後で大変なことが起こる」「○○をしっかり供養すれば良い方向に物事が進む」というのは不安煽動型宗教の原始的なあり方ですが、この「○○」の部分に「神」を入れようが「仏」を入れようが「先祖」を入れようが形式としてはどれも同じことで、そういう意味ではやはり日本人の先祖崇拝も宗教的感覚の一種とみなすことができるでしょう。

続きを読む "日本人が無宗教と言いながら先祖供養をする理由"
2008年5月 1日

先日、とあるお寺が主催する仏教の研究会に出席してきました。お坊さんが寄り集まって開かれる勉強会はたくさんありますが、一ヵ寺であれだけの人材を集めて場所を整え研究紀要まで出しているところはなかなか他にはないのではないかと思います。

もっとも、各宗派がそれぞれ備える大きな研究所には大勢の人材と立派な施設が揃っていますが、大きな宗派というのは総じてあまり研究者を大事にしない傾向があるようで、「ある研究所では、待遇があまりにもひどくて研究員が皆退職してしまったのに、待遇のよい事務員だけが仕事に残っているのだが、研究員のいない研究所で彼らはいったい何の仕事をしているのだろうか」という笑い話も聞かれるくらいです。「仏教教団の研究所っていうのは、宗派の偉いお坊さんたちが一般人から難しいことを聞かれたとき、自分たちが答えられなくて恥をかかないようにするために、代わりに答える人として置かれているだけなんだよ」というとある研究者の言葉に、妙な説得力があります。

続きを読む "仏教界の研究事情"
2008年4月21日

結婚して部屋が手狭になったので、ここのところ時間があるときに物件探しをしています。

東京には数万単位で数え切れないほどの物件があり、物件情報を見ながら「もしここに住んだらどんな暮らしが待っているのだろう」と想像を膨らませるだけで、そう飽きることはありません。

中でも特に面白いのは、築年数のかなり経っている古めの物件。

最近の新築物件では良くも悪くも考えられないような変わった条件のものが安い家賃で見つかると、「どうだ、この条件を呑めるか?」と貸し主さんに勝負を挑まれているような気がして、借りる側としても「よし、その間取りなら、こういう使い方で対抗してやる」なんていう闘志を燃やしてしまうのです。

続きを読む "建物と人間の営みの調和"
お寺は日本全国に7万ヵ寺以上存在するといわれますが、その割にはあまり存在感が感じられないのは私の気のせいでしょうか?情報化とグローバリゼーションが進む時代だからこそ、お寺には日本の伝統や文化を守り育んでいく、大事な役目があると思うんです。彼岸寺の松本が見たり聞いたり感じたりしたことをもとに、「お寺の未来」についてつらつらと書きます。エッセイですので不正確な表記やおおげさな表現が出てくるかもしれませんが、どうぞご了承ください(誤り等あれば修正しますので、ご指摘いただければ幸いです)。
松本圭介
僧侶 法名・釈紹圭(しょうけい)。浄土真宗本願寺派僧侶、布教使。東京・神谷町光明寺所属。1979年生まれ。東京大学文学部哲学科卒業後、仏教界のトビラを叩く。超宗派の僧侶達が集うブログサイト「彼岸寺」を設立し、お寺の音楽会「誰そ彼」や、寺院内カフェ「ツナガルオテラ 神谷町オープンテラス」を企画している。著書に『おぼうさん、はじめました。』(2005年12月刊行)