2008年2月20日

後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いにいきました。


[おじいちゃん]

まずね、因果についてだけどね、めっちゃんはひとつ勘違いしてるな。因果という場合の、果が因になるという場合の「因」といった場合には、異熟果(いじゅくか)という形ではないんだよ。


[めっちゃん]

「私」というのは、過去の「果」であると同時に、未来の「因」であるということになる」と書いていた部分のことね。異熟果ではないってどういうこと?


結果の中に、因になる要素がある ~結果はそのまま因にならない~


[おじいちゃん]

例えば、善もしくは悪という行為は因になるんだよ。善というのは、それによって安穏の安らかな結果をもたらす行為だし、悪というのは非安穏の結果をもたらす行為だよね。善もしくは悪というのは「行為」で、それが「原因」になって、苦もしくは楽という「結果」をもたらすわけなんだよ。その結果は善でも悪でもないんだよ。善によってもたらした結果であって、善でも悪でもないということは、結果はそのまま因にはならないんだよ。結果はあくまで結果であって、因ではないんだな。

続きを読む "5.2「救われるかどうかにおいて、私という主体の力の意味はあるのでしょうか」 [対話]"
2008年2月 4日

おじいちゃんへ

拝啓
凍えるような寒さが続いていますが、おじいちゃん、元気ですか。
こう寒いと外に出るのもなかなか億劫になりますね。おじいちゃんに会いにいこうと思いつつも、この寒さにかまけて、しばし時間があいてしまいました。

さて、今回おじいちゃんに聞きたいことは、
「救われるかどうかにおいて、私という主体の力の意味はあるのでしょうか」
ということです。

おじいちゃんは、以前、「因果」の話を私に教えてくれましたね。その時、大豆を例に「豆をうえて豆をとる。豆は去年の『果』であり、今年の収穫に対する『因』になる」といいました。そうすると、「私」というのは、過去の「果」であると同時に、未来の「因」であるということになると理解しました。

また、豆が発芽するには、太陽・水・空気などの外部要因が必要になると思うのですが、それらを「縁」というならば、「縁」によって「私を救ってくださる阿弥陀様の存在に気づくかどうか」が往生を決定づける最後の要因になるのだと思います。

そうなると、「阿弥陀様の存在に対する気づき」があれば、「果」は「浄土への往生」になり、気づきがなければ、「果」は「再びの生」になってしまう、とそのように思いました。(輪廻転生とは私たちが勝手に描いているものだとおじいちゃんはいったので、そもそも「再びの生」になるのかどうかも疑問なのだけどね、この疑問はまた別の機会に聞くことにします。)このように考えていくと、「因」と「縁」以外の「私の気づき」という要素が浄土往生においてはとても重要なのではないかと思いました。

続きを読む "5.1「救われるかどうかにおいて、私という主体の力の意味はあるのでしょうか」[手紙]"
2007年12月25日

おじいちゃんへ

拝啓

この間、おじいちゃんに会った時はまだ秋だったのに、気がつけばもうすっかり冬になってしまいましたね。今ごろ、おじいちゃんは、こたつに入って縁側から海を眺めているのだろうなあっと思いながら、久しぶりに手紙を書いています。

Nature1-012決定.jpg

この間のおじいちゃんの話を聞いて、私なりに少し考えたことを書いてみます。

今回のおじいちゃんへの質問は、「阿弥陀様の救いには条件があるのか」ということでした。そのきっかけとなったのは、おじいちゃんが以前くれた手紙でしたね。

続きを読む "4.3 おじいちゃんへ [振り返り]"
2007年11月 6日

後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いにいきました。


[おじいちゃん]

今回はまず、「死んだ人がすぐにお浄土にいったのかどうか」という問題提起だね。これは大事な問題だね。


浄土に包まれている 


あのねえ、ただ実際はね、どこにいても浄土の枠の中なんだよ。浄土に往生した者は、めっちゃんがいるこっちの側にはなんぼでも会えるのだよ。まあしかし、浄土真宗では浄土に誰でも往生できるとはいわないね。やっぱり、生と死の問題を解決したり、自分自身にけじめをつけるということが非常に大事なことになるんだ。

ただ同じこの教えに導かれているもの、それはまあ、今はわからなくたって必ず分かるときがくるし、どこにいっても、例えば地獄の底にいても、その人にとったら地獄だけど、悟りを開いたものの目からみれば地獄におろうとどこにおろうと実はただあんたが錯覚してるだけだということだから「その錯覚を翻しなさい」といつでも言い続けることができるわけなんだよ。その意味では、「こちらからはいつでも会えるけど、向こうからは気がつかない」ということなんだよ。

続きを読む "4.2「阿弥陀様の救いに条件はあるのでしょうか」[対話]"
2007年10月31日

拝啓


朝晩は幾分涼しくなり、ようやく秋の気配を感じる今日この頃です。

今回のおじいちゃんへの質問は、
「阿弥陀様の救いに条件はあるのでしょうか。」
ということです。

数年前、私は友人の死という現実に直面し、
その時に感じた思いを綴った手紙をおじいちゃんに送りましたね。覚えていますか?
その中で、友人の死という現実をどう受け止めてよいのか分からず混乱する一方で、
「起きたことには必ず意味がある、そうなるべくしてなった」とどこかで思ったこと、
また、「私より一足先に浄土にいったのだと思うと、
しんどいこの世の中にいるよりよかったのではないか」
そのように思ったと書きました。

また、その反面、こらえきえれない「悲しい」という思いがわきあがってきて、
そのことに戸惑い、「悲しいというその思いはどこからやってくるのだろう」
という疑問がわいたこと、
そして、ふとそれが「我」であることに気づいたということも書きました。

おじいちゃんは、会った時にいろいろと話してくれましたね。
しかし、混乱している私を前に、あまり多くを語れなかったのでしょう。
それからしばらくして、一通の手紙をくれましたね。

今回の私の疑問は、おじいちゃんがくれたその手紙の中から始まっています。

続きを読む "4.1「阿弥陀様の救いに条件はあるのでしょうか」[手紙]"
めっちゃん(29歳)が仏教について、浄土真宗について、日々考える素朴な疑問を、僧侶であるおじいちゃんに質問します。
[手紙]
ーめっちゃんからおじいちゃんへの手紙
[対話]
ーめっちゃんとおじいちゃんの面談
[振り返り]
ー面談を終えためっちゃんの感想
めっちゃん
離れて住むおじいちゃんは浄土真宗のお寺のお坊さん。そのおじいちゃんの影響を強く受けたせいか、人生の節目節目に浮かんでくる仏教への問いと格闘する日々が続く。京都府出身、現在29歳。今年第一子を出産。